ギリシア語とラテン語における「三位一体」を表す三通りの言葉、ギリシア定式とラテン定式における表現のあり方の違い、三位一体とは何か?③
前々回と前回の記事のなかでは、新約聖書と旧約聖書のそれぞれにおいて語られているキリスト教における三位一体の教義へとつながる様々な神の存在の捉え方に関する記述のあり方について一つ一つ取り上げて詳しく考察してきましたが、
そもそも、こうした三位一体、英語ではTrinity(トリニティー)、ラテン語においてはTrinitas(トリニタス)と呼ばれる言葉は、
ギリシア語やラテン語において定式化されたより正確な表現においては、三通りの別々の言葉によって表現されていくことになります。
ギリシア定式における三位一体の表現とウーシアとヒュポスタシスの多義的な解釈
まず、
新約聖書の原典となる表記に用いられているギリシア語における三位一体の定式的な表現は、
mia ousia treis hypostaseis※(ミア・ウーシア・トレイス・ヒュポスタセイス)すなわち、一つのウーシア、三つのヒュポスタシスと表現されることになります。
※hypostaseisはhypostaseisのギシリア語における複数形の形
しかし、そもそも、
ギリシア語におけるousia(ウーシア)とhypostasis(ヒュポスタシス)という言葉は、もともとはどちらも同義語的な意味として用いられている単語であり、
両者とも、実体や存在者、基体や本質といった多様な意味を表す言葉として解釈されることになるため、
こうしたウーシアとヒュポスタシスというギリシア語の二つの言葉の解釈の仕方に応じて、三位一体の教義自体についても、
そこには、多様な解釈が存在しうる複雑な構造が存在していると考えられることになります。
ラテン定式における二通りの三位一体の表現のあり方の違い
そして、
こうしたギリシア定式に対するラテン語における三位一体の定式的な表現としては、
una essentia tres substantiae(ウナ・エッセンティア・トレース・ズブスタンティアエ)すなわち、一つの本質、三つの実体という表現のあり方と、
una substantia tres personae(ウナ・ズブスタンティア・トレース・ペルソナエ)すなわち、一つの実体、三つのペルソナという二通りの別々の言葉による表現がなされていていくことになります。
しかも、
こうしたラテン定式における三位一体の表現においては、同じ「実体」という言葉が、前者の定式においてはギリシア語のウーシアの訳語として、後者の定式においてはギリシア語のヒュポスタシスの訳語として用いられているため、
そういった意味においても、
こうしたギリシア定式とラテン定式に基づく三位一体論の解釈のあり方は、複雑な概念同士が互いに絡み合った難解な議論へと結びついていってしまうことになると考えられることになるのです。
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以上のように、
キリスト教における三位一体の教義のあり方を示すギリシア語とラテン語における定式化された表現のあり方としては、
mia ousia treis hypostaseis(ミア・ウーシア・トレイス・ヒュポスタセイス)(一つのウーシアと三つのヒュポスタシス)
una essentia tres substantiae(ウナ・エッセンティア・トレース・ズブスタンティアエ)(一つの本質と三つの実体)
una substantia tres personae(ウナ・ズブスタンティア・トレース・ペルソナエ)(一つの実体と三つのペルソナ)
という三つの表記が挙げられることになり、
次回以降の記事において改めて詳しく考察していくように、こうした三通りの三位一体の教義の表記のあり方からは、
それぞれの表記の内に含まれる「ウーシア」と「ヒュポスタシス」、「本質」と「実体」と「ペルソナ」というそれぞれの概念の捉え方の違いに応じて、その言葉自体が表す三位一体の意味内容のあり方にも微妙な違いが生じていくことになると考えられることになるのです。
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次回記事:ウーシアが本質か実体かという捉え方の違いに基づく「三位一体」の解釈における三つの神の一体性の強さの違い、三位一体とは何か?④
前回記事:旧約聖書の「創世記」における三人の人物の姿をした一なる神の存在とアブラハムと主なる神との対話、三位一体とは何か?②
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