旧約聖書の「創世記」における三人の人物の姿をした一なる神の存在とアブラハムと主なる神との対話、三位一体とは何か?②

前回の記事で書いたように、キリスト教において父なる神子なる神聖霊という三通りの神の存在の一体性を説く三位一体の教理については、

新約聖書における父と子と聖霊についての様々な具体的な記述のうちに、その原型となる考え方を見いだしていくことができると考えられることになるのですが、

このように、神の存在を一なる神としての単一の存在においてだけではなく、三通りの姿や位相をもった存在として捉えるという考え方については、

さらに、さかのぼって、旧約聖書における記述の内にもその大本の起源となるような神の存在の捉え方を見いだしていくことができると考えられることになります。

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旧約聖書の「創世記」おけるアブラハムと神の出会いと対話

まず、

冒頭でも述べたような三通りの姿をもつ一つの神についての具体的な記述がなされている旧約聖書の箇所としては、以下で示すような「創世記」における記述の存在が挙げられることになります。

・・・

主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。

目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。

「お客様、よろしければ、どうか、僕(しもべ)のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕(しもべ)の所の近くをお通りになったのですから。」

その人たちは言った

「では、お言葉どおりにしましょう。」

(旧約聖書「創世記」18章1~5節)

・・・

つまり、

旧約聖書のこの箇所においては、

神の忠実なる僕(しもべ)であるアブラハムの前に主(しゅ)と呼ばれる神が実際に自らの姿を現してアブラハムとの会話を繰り広げていく場面が描かれていくことになるのですが、

この場面においては、その冒頭から、

一なる存在であるはずの主なる神が、アブラハムの前に現れた時には三人の別々の人物の姿に分かれるようにして現れるという少し奇妙な描写がなされていると考えられることになります。

ただし、この時点においては、

天から下ってくるようにして現れた三人の存在は、「主がアブラハムの前に現れた」と語られている以上、少なくともそのうちの一人は神の仮の姿であると考えられるものの、

三人の存在すべてが神の姿であるとまでは書かれていないので、常識的な考え方に基づくと、三人のうちの一人は神の姿だが、残りの二人は神に付き従って現れた天使のような存在の姿を体現しているにすぎないといった解釈も十分成り立ちうると考えられることになります。

しかし、実際には、

こうした「創世記」における神とアブラハムとの対話の場面からは、ここからさらに奇妙な話の流れへと突き進んでいってしまうことになるのです。

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アブラハムのもとに現れた三人の人物の姿をした一なる神の存在

そして、その後、

アブラハムに対して、自分たちが地上にまでわざわざ足を運んできた理由を以下のような形で解き明かしていくことになります。

・・・

主は言われた

ソドムとゴモラの罪は非常に重いと訴える叫びが実に大きいわたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた

(旧約聖書「創世記」18章20~21節)

・・・

そして、その後、

神とアブラハムの間で、ソドムとゴモラの町の裁きをめぐる問答が繰り広げられていくことになり、二人の問答が終わったのち、

・・・

主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

(旧約聖書「創世記」18章33節)

・・・

という言葉によって「創世記」のこの章の物語は終わりを迎えることになるのですが、

旧約聖書のこの箇所においては、

天から現れた三人の人物のうち、ソドムとゴモラの町へと向かった二人の人物は、どちらも「主」である「わたし」自身がソドムとゴモラの町の姿が天に届いた叫びの通りであったか実際に「見て確かめよう」と語っていて、

さらに、アブラハムのもとに残って彼と問答を繰り広げて、語り終えるとそのもとを去って行かれた残りの一人の人物もまた「主」であったと書かれているように、

かなり明確な形で、

この章の話のなかでアブラハムのもとに現れた三人の人物の姿は、そのすべてが神の内に位置づけられる存在であったということが語られていると考えられることになります。

もっとも、

「創世記」の次の章の物語のなかでは、

ソドムとゴモラの町に向かった二人の存在に対しては、「主」ではなく「二人の御使い」という呼び名が使われていくことになるというように、

こうした旧約聖書における神の存在の描写のあり方についての様々な記述のうちには表現の揺れも見いだされていくことにはなるのですが、

少なくとも、

「創世記」の18におけるアブラハムの前に現れた神の存在のあり方においては、

一なる神としての主が、三人の人物の姿という三つの別々の姿かたちをとることによって同時に現れるという三通りの位相をもった存在としての神の姿が示されていると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

こうした「創世記」の18におけるソドムとゴモラの町をめぐる主なる神とアブラハムとの問答の場面においては、三通りの姿や位相をもった一なる神の姿が示されていると考えられ、

旧約聖書の段階においては、こうした一なる神の存在における三つの姿かたちの現れのそれぞれに対して父と子と聖霊といった三つの名が与えられることはないのですが、

そこには、本質や実体としては一なる存在であるはずの神が、三通りの別々の姿をもって同時に現れることができるというはるか先の時代のキリスト教における三位一体論へとつながる神の存在の捉え方の萌芽を読み取っていくことができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:ギリシア語とラテン語における「三位一体」を表す三通りの言葉、ギリシア定式とラテン定式における表現のあり方の違い、三位一体とは何か?③

前回記事:三位一体とは何か?新約聖書における父と子と聖霊の一体性についての記述と祈りの言葉の内に示される三者の一体性の信仰

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