三位一体とは何か?新約聖書における父と子と聖霊の一体性についての記述と祈りの言葉の内に示される三者の一体性の信仰

三位一体(さんみいったい)とは、キリスト教における父なる神子なる神そして聖霊という三つの存在が、位相や名前としては区別されることになるもの、実体や本質おいては一体であるということを表す教理のことを意味する概念であり、

そこから転じて、日常的な表現においては、三つのものが一つに統合されている状態や、三人の人物が心を一つに合わせている状態などのことを指してこうした表現が用いられることもあります。

そして、

こうした三位一体論と呼ばれる教理がキリスト教神学において明確な形で確立されていくのは、

紀元後30年頃であったとされるイエスの十字架の死の後、1世紀から2世紀において新約聖書の正典の選定と編纂の作業と教義についての議論が進められていったのち、

325に行われた第一回ニカエア公会議において、三位一体論がキリスト教における正統教義とされて以降のことであると考えられることになるのですが、

その一方で、

こうした4世紀以降教父哲学とスコラ哲学における三位一体論へとつながる父なる神子なる神聖霊一体性の教理へとつながる考え方は、

キリスト教の聖典である新約聖書における具体的な記述のうちにも、その原型となる考え方を見いだしていくことができると考えられることになります。

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父なる神と子なる神であるイエス・キリストとの一体性

まず、

キリスト教の正典である新約聖書における父なる神と子なる神と聖霊の一体性を示す三位一体論の教理へとつながる記述のうち、

はじめの父なる神子なる神二者の存在の一体性を示す具体的な記述としては、「ヨハネによる福音書」において、

ユダヤ教のファリサイ派の人々に捕らえられて十字架の刑に処されることになる前に、イエスが自らの教えを弟子たちに示した最後の言葉のなかで語られている以下のような記述を挙げることができると考えられることになります。

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 」

(新約聖書「ヨハネによる福音書」17章21~22節)

つまり、

上記のイエス自身の言葉においては、父なる神である主とその子であるイエス・キリストとは、単に父と子という肉親的な絆や上下関係において互いに近しい存在として位置づけられているというわけではなく、

前者が後者の内にあると同時に、後者もまた前者の内にあるという互いに等しい関係にある存在として位置づけられていて、両者は二つで一つであるという

父なる神子なる神であるイエス・キリストとの本質的な意味における一体性が示されていると考えられることになるのです。

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父なる神と聖霊との一体性と両者の間に成立する包含関係

そして、新約聖書のうちには、

こうした父なる神と子なる神の一体性の議論と同様に、父なる神と聖霊の存在についても両者を一体的な存在として捉える考え方も示されていて、

例えば、「テサロニケの信徒への手紙一」においては以下のような言葉が語られていくことになります。

神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。」

(新約聖書「テサロニケの信徒への手紙一」4章7~8節)

つまり、

新約聖書のこの箇所においては、父なる神自分自身の存在の一部である聖霊を与えることによって人々を善い生き方へと導こうとしているということが語られていて、

聖霊の存在を否定することは神の存在を否定することと等しいという意味において、父なる神と聖霊の両者が一体的な存在であるということが示されていると考えられることになるのですが、

そういった意味では、

ここでは、父なる神と聖霊との関係は、前述したような父なる神と子なる神における対等な関係としての一体性というより、

父なる神の存在の内に聖霊の存在が内包されることになるという包含関係に近いような関係性としての両者の間の一体性の議論が示されているとも考えられることになります。

・・・

そして、

前述したように父なる神と子なる神存在の一体性が示されたうえで、さらにここでは父なる神と聖霊存在の一体性も示されている以上、

父なる神と子なる神と聖霊の三者の間には、

子なる神=父なる神=聖霊

という関係が成立すると捉えることができると考えられることになるので、

こうした新約聖書における父なる神と子なる神の一体性と父なる神と聖霊の一体性を表す一連の記述からは、

間接的な形ではあるもの父なる神と子なる神と聖霊の三者の存在の本質的な一体性を導く三位一体論の原型となる考え方を見いだしていくことができると考えられることになるのです。

祈りの言葉の内に示されている父と子と聖霊の名と三者の一体性の信仰

また、新約聖書のなかには、

明示的な形ではないものの父なる神と子なる神と聖霊の三者の存在が並列的な関係に位置づけられる存在として並べて語られている箇所もいくつか存在していて、

例えば、「マタイによる福音書」における

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(新約聖書「マタイによる福音書」28章19~20節)

といった記述や、

「コリントの信徒への手紙二」における

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」

(新約聖書「コリントの信徒への手紙二」13章13節)

といった祈りの言葉のうちに、そうした父なる神と子なる神と聖霊一体性の信仰へとつながるような考え方を見いだしていくことができると考えられることになります。

・・・

以上のように、

キリスト教の正典である新約聖書のなかでは、父なる神子なる神そして聖霊という三つの存在が一体であるという三位一体論の考え方がそのまま直接的な形で示されている記述は見いだすことができないのですが、

その一方で、

それらの三者の存在が並列的な形で語られている箇所や、三者のうちの二者の間における存在の一体性についての記述がなされている箇所は散見することができ、

それらの新約聖書における神についての記述組み合わせていくことによって、のちの三位一体論の教理へとつながっていく原型となる考え方を見いだしていくことができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:旧約聖書の「創世記」における三人の人物の姿をした一なる神の存在とアブラハムと主なる神との対話、三位一体とは何か?②

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