中世ヨーロッパのオカルト思想を代表する四人の人物の名前とは?①フィチーノの哲学とピコ・デラ・ミランドラの人文主義

前回の記事で書いたように、オカルト(occultという言葉は、もともとのラテン語の語源に基づく意味としては、「それまで隠されてきた秘密の知識」といった意味を表す言葉であり、

こうしたオカルトと呼ばれる言葉には、人間の理性や常識的な考え方に反する異端思想や迷信などのことを意味するような否定的なイメージだけではなく、

それまでの誤った常識を打ち破り、人々の心の内に新たな啓蒙の光をもたらすといった肯定的なイメージも含まれていると考えられることになるのですが、

それでは、こうしたオカルトという言葉が広く使われていくようになった中世のヨーロッパにおいては、

具体的にはどのような思想や人物のことを指して、こうしたオカルトという言葉が用いられるようになっていったと考えられることになるのでしょうか?

スポンサーリンク

哲学・人文主義・錬金術・魔術のそれぞれの分野におけるオカルト的な思想を代表する四人の人物の名前

15世紀から16世紀頃の中世からルネサンスへと至る時代のヨーロッパにおいては、

主に、古代ギリシア哲学についての研究を行う哲学者や、教会の権威やスコラ哲学に基づく中世的世界観からの人間性の開放を目指した人文主義者

あるいは、そうした中世的な学問体系の内においては異端として排斥されてきた錬金術師魔術師といった人々における思想のあり方などを指して、こうしたオカルトと呼ばれる言葉が広く用いられていたと考えられることになるのですが、

こうした哲学・人文主義・錬金術・魔術という四つの分野のそれぞれにおけるオカルト的な思想を代表する人物を一人ずつ挙げていくとするならば、

例えば、それぞれ順番に、

マルシリオ・フィチーノピコ・デラ・ミランドラ、そして、パラケルススアグリッパといった四人の人物の名を挙げることができると考えられることになります。

フィチーノの哲学における神を頂点とする五つの階層から成る宇宙観

このうち、はじめに挙げたマルシリオ・フィチーノMarsilio Ficino、1433年~1499)は、15世紀のイタリアの哲学者にして神学者にもあたる人物でもあり、

彼は、当時のイタリアの中心都市であるフィレンツェにおいて隆盛を極めたメディチ家の当主であったコジモ・デ・メディチの後援を受けることによって、

彼が収集していた莫大な数の古代思想やギリシア哲学に関するギリシア語の写本の管理を任されることになります。

その後、フィチーノは、メディチ家が保有していたフィレンツェ郊外のカレッジの別荘を与えられ、そこで古代ギリシアを代表する哲学者であるプラトンやプロティノスなどを中心とする古代思想や哲学書に関する貴重な写本のラテン語への翻訳を進めていくことになるのですが、

そうした古代文献に関する翻訳と解釈の作業を通じて、彼のもとには数多くの学者や思想家たちが集まってくるようになり、

そうしたコジモ・デ・メディチのもとでフィチーノが進めてきた新たな学問的活動のあり方は、のちにプラトン・アカデミーと呼ばれる私的な学問探究の研究会へと発展していくことになります。

そして、

こうしたプラトン・アカデミーにおける古代文献についての研究を通じて、新プラトン主義に基づく哲学的探究を深めていたフィチーノは、その後、自分自身の新たな哲学思想を打ち立てていくことになり、

そうしたフィチーノの哲学における宇宙観においては、世界全体の構造は、神・天使的知性・理性的魂・質(形相)・物体(素材)という神を頂点とする五つの階層から成り立っているとされたうえで、

そうした五段階の階層の中間に位置する理性的魂としての人間は、神へと向かって上昇していくとも、自らの魂を捨てて単なる物体へと下降していくことも可能な自由ではあるが不確かな存在として位置づけられていくことになります。

そして、こうしたフィチーノの哲学思想においては、そうした理性的魂としての人間における究極の目的は、五つの階層のうちの頂点に位置する神の知性へと自分自身の認識を高めていくことによって得られる神との合一にあるとされていくと同時に、

その哲学思想においては、そうした神と合一していくことも可能な人間の魂は、神の存在と同様に不滅で永遠なるものであるとする魂の不死の証明を行う議論も展開されていくことになるのです。

スポンサーリンク

ピコ・デラ・ミランドラの人文主義における人間の尊厳の思想

そして、その次に挙げたピコ・デラ・ミランドラPico della Mirandola、1463年~1494年)は、15世紀のイタリアを代表する人文学者として有名な人物であり、

彼は、イタリア各地の大学において様々な学問を学んでいくなかで自らの博識とたぐいまれな弁論の才能を開花させていくことになり、

ピコは、その後、パリ大学の神学部へと招かれたのち、1486年にローマへと赴いて、この地で宗教的な討論会を開くことになるのですが、そうした宗教的討論会のために彼が取り上げた論題の内の一部がローマ教会から異端の思想として糾弾されることによって、

彼はイタリアから追われ、フランスでの逃亡生活を強いられてしまうことになります。

そして、その後、ローマ教会が放った追っ手によって捉えられたピコは、前述したコジモ・デ・メディチの孫にあたるロレンツォ・デ・メディチに助けられ、彼の庇護のもと、

フィチーノが主宰するプラトン・アカデミーの研究会の一員として哲学や神学についての研究に励んでいくことになるのですが、

それまでのローマ教会との対立や逃亡生活によって心身に無理を重ねていたピコは、その後31歳の若さでその短い生涯を終えてしまうことになります。

しかし、

彼がその短い生涯のなかで残した著作はその後のルネサンスの時代における人文主義の思潮において大きな影響を与えていくことになり、

ピコ・デラ・ミランドラが残した主著である「人間の尊厳について」と題される演説文においては、

人間の本性というものは本来不定なるものであり、人間は自らの自由意志に基づいて自分自身の本性を選択していくことによって、神のようにも獣のようにも何者にでもなることができるという自由意志を持った存在として人間の尊厳のあり方が語られていくことになるのです。

・・・

次回記事:中世ヨーロッパのオカルト思想を代表する四人の人物の名前とは?②錬金術師パラケルススと魔術師アグリッパ

前回記事:オカルトとは何か?ラテン語の語源とスコラ哲学との関係、啓蒙の光をもたらす秘密の知識としてのオカルトの肯定的な意味

宗教・信仰・神秘主義のカテゴリーへ

スポンサーリンク
サブコンテンツ

このページの先頭へ