プラトンのイデア論における現実の世界が悪でイデアの世界を善とする善悪二元論の世界観、『国家』における認識論⑤
前回書いたように、プラトンのイデア論の根幹をなす議論が語られているプラトン著『国家』第七巻の「洞窟の比喩」においては、
人間の通常の認識のあり方は、住み慣れた暗い洞窟の世界の中にとどまって、明るい外の世界の存在に気づかないまま壁面に映る影絵の姿を真実の世界だと思い込んでいる洞窟の囚人たちと同様の誤った不完全な認識のあり方であるということが示されます。
そして、
こうしたプラトンのイデア論における「洞窟の比喩」を巡る一連の議論からは、
物質や肉体から成る現実の世界を悪とし、それに対して、知性や魂が属するイデアの世界を善とする善悪二元論の世界観を読み取ることができると考えられることになります。
現実の世界を悪としてイデアの世界を善とする善悪二元論の世界観
プラトンの『国家』第七巻で語られる「洞窟の比喩」においては、
現実の世界における物質的な存在としての事物の認識だけにとどまり、その背後にある真なる実在であるイデアの認識へと至ることのない人間における通常の認識のあり方が、
洞窟の奥底に閉じ込められて、手足を縛られて拘束されているために、暗い洞窟の壁面に映る影絵の世界を真実の世界だと思い込み、自分たちの背後にある洞窟の外の明るい光の世界の存在に気づかないままでいる洞窟の囚人たちの認識のあり方に対応づけられていくことによって、
真なる存在であるイデアの認識へと至るために必要な魂の視線の向け変えのあり方が示されていくことになります。
そして、
こうしたプラトンの「洞窟の比喩」における「囚人」や「手足を縛られた」といった表現からは、
暗い洞窟の世界に対応づけられる存在である物質や肉体から成る現実の世界もまた、人々の魂がその内に閉じ込められ、囚人としてつなぎ止められているような不自由で劣った偽りの世界であるというマイナスイメージが強い存在として捉えられていると考えられることになります。
このように、
プラトンのイデア論における「洞窟の比喩」を巡る一連の議論においては、
通常の認識の対象となる現実の世界である感覚的世界(現象界)と、より高次の真実の認識の対象となるイデアの世界である知性的世界(イデア界)との認識論上の区別が示されているだけではなく、
存在論上の議論としても、両者の間には明確な上下関係が存在していると考えられることになります。
つまり、
プラトンのイデア論においては、
物質や肉体から成る感覚的世界である現実の世界が、人々の魂が囚人として拘束されてつなぎ止められているような不自由で劣った偽りの世界として否定的に捉えられているのに対して、
知性や魂が属するイデアの世界の方は、太陽の光が降り注ぐ明るい外の世界に象徴されるような自由で優れた真実の世界として強く肯定されていくことによって、
現実の世界とイデアの世界という存在の根源的な差異に基づく善悪二元論の思想へとつながる世界観が提示されていると考えられることになるのです。
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以上のように、
「洞窟の比喩」に代表されるようなプラトンのイデア論の議論からは、
現実の世界とイデアの世界、そして、暗い洞窟の世界と明るい外の世界という二つの世界同士の間の対応関係から、
物質や肉体から成る現実の世界を悪として、知性や魂が属するイデアの世界を善とする善悪二元論の世界観を読み取ることができると考えられることになります。
そして、
こうしたプラトンのイデア論における現実の世界とイデアの世界の区別と差異に基づく善悪二元論の世界観を一つの土台とすることによって、
その後のグノーシス主義における霊肉二元論の思想に代表されるような
中世から近代のヨーロッパにおける物質や肉体を悪として、それに対立する精神や魂の世界を善とする物心二元論や善悪二元論の思想が展開されていくことになったと考えられることになるのです。
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次回記事:プラトンの太陽・線分・洞窟の三つの比喩における四段階の認識のあり方、プラトン『国家』における認識論⑥
前回記事:プラトンの「洞窟の比喩」における洞窟の囚人たちと壁面に映る影絵の世界、プラトン『国家』における認識論④
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