プラトンの太陽・線分・洞窟の三つの比喩における四段階の認識のあり方、プラトン『国家』における認識論⑥
前回までの一連のシリーズで書いてきたように、
プラトンの主著の一つである『国家』においては、
太陽・線分・洞窟という三つの比喩が順番に示されていくことを通じて、プラトンのイデア論における認識論の構造が明らかになっていきます。
そこで今回は、こうした太陽と線分と洞窟の比喩の中で語られているプラトンの認識論の構造について改めて詳しく図解していく形でまとめ直していきたいと思います。
『国家』における太陽・線分・洞窟の三つの比喩の議論の流れ
このシリーズの初回で書いたように、
プラトンの『国家』第六巻にでてくる「太陽の比喩」においては、
人間における視覚という認識のあり方が、その大本においては太陽がもたらす光に基づいて成立しているという比喩を通じて、
現実の世界における個々の事物は、その原型である個々のイデアに基づいて成立し、個々のイデアは、その大本にある善のイデアに基づいて成立しているという
善のイデアを頂点とする善のイデアと個々のイデア、そして現実の事物との間の階層構造が示されることになります。
そして、その次の同じく『国家』第六巻にでてくる「線分の比喩」においては、
人間の認識の構造には、エイカシア(映像知覚)とピスティス(知覚的確信)、そして、ディアノイア(間接的認識)とノエーシス(直知的認識)という四段階の階層があるということが説明されたうえで、
そうした四つの認識の相互の関係が、四つの線分へと分割された直線の数学的な比例関係の比喩を通じて、
直接的認識と間接的認識の間をめぐる三重の比例関係として成立していることが明らかにされることになります。
そして、それに続く第七巻の「洞窟の比喩」においては、
暗い洞窟の奥底で手足を縛られ、壁面に映る影絵を見つめ続けることだけを強制されている洞窟の囚人たちの比喩を通じて、
物質的な存在としての事物の認識だけにとどまり、その背後にある真なる実在であるイデアの存在に気づかないままでいる人間の通常の認識のあり方も、
住み慣れた暗い洞窟の世界の中にとどまって、明るい外の世界の存在に気づかないまま壁面に映る影絵の姿を真実の世界だと思い込んでいる洞窟の囚人たちと同様の誤った不完全な認識のあり方であるということが示されることになります。
そして、こうした『国家』における三つの比喩を通じて、
暗い洞窟の奥底から太陽の光が降り注ぐ明るいイデアの世界へと人間の認識の段階が上昇していく道筋が示されていくことになるのです。
プラトンの太陽と線分と洞窟の比喩における四段階の認識のあり方
そして、こうした太陽・線分・洞窟という三つの比喩において示されているプラトンのイデア論における人間の認識のあり方についてまとめると、
それは、以下の図で示したような、善のイデアを頂点とする
エイカシア(映像知覚)、ピスティス(知覚的確信)、ディアノイア(間接的認識)、ノエーシス(直知的認識)という四段階の認識のあり方のヒエラルキー構造として捉えることができると考えられることになります。
詳しくは『国家』第六巻の「線分の比喩」の議論の中で語られているように、上記の図において、
エイカシア(映像知覚)は、水面に映った姿や壁面に映る影絵といった実際の事物を伴わない映像だけの認識のあり方、
ピスティス(知覚的確信)は、実際の実物を知覚している通常の事物認識のあり方のことを意味していて、
それに対して、
ディアノイア(間接的認識)は、数学や自然学といった通常の学問における論理的な推論を通して得られるイデアについての間接的な認識のあり方、
ノエーシス(直知的認識)は、深い哲学的探究を通じてもたらされる真の実在であるイデアそのものを直接把握する認識のあり方を意味することになります。
そして、
こうした「線分の比喩」におけるエイカシア(映像知覚)という最下層の認識のあり方が、
まさに、「洞窟の比喩」において語られている洞窟の壁面に映る影絵の映像の認識という洞窟の囚人たちの認識のあり方に対応する認識のあり方であると考えられることになり、
暗い洞窟の世界から、明るいイデアの世界へと魂の視線の向け変えを行い、エイカシア(映像知覚)からピスティス(知覚的確信)、さらにはディアノイア(間接的認識)からノエーシス(直知的認識)へと段階的に認識のレベルを引き上げていくことによって、最終的には、
「太陽の比喩」において語られている善のイデアの認識へと限りなく近づいていくことができると考えられることになるのです。
そして、そういう意味においては、
上記の太陽・線分・洞窟という三つの比喩は、決して互いに無関係な別個のあり方をしているわけではなく、
それらはむしろ、根底においては互いに深く結びつくことによって、
同じ真実を、三つの異なる視点から語っている比喩であると考えられることになるのです。
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以上のように、
プラトンの『国家』第六巻と第七巻における太陽と線分と洞窟の比喩においては、全体として、
エイカシア(映像知覚)、ピスティス(知覚的確信)、ディアノイア(間接的認識)、ノエーシス(直知的認識)という四段階の認識のあり方が、
善のイデアを頂点とするヒエラルキー構造において成立しているということが示されていると考えられることになります。
そして、こうした善のイデアを頂点とする認識のヒエラルキー構造において、
人間の認識のあり方が、エイカシアから、ピスティス、ディアノイア、そしてノエーシスへと段階的に上昇していくことによって、
最終的に、そうした認識のあり方の頂点にある善なるイデアとしての真理の認識へと限りなく近づいていくことが可能となるという哲学探究の歩むべき道筋のあり方が示されていると考えられることになるのです。
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初回記事:プラトンの「太陽の比喩」における善のイデアを頂点とするヒエラルキー構造、プラトン『国家』における認識論①
前回記事:プラトンのイデア論における現実の世界が悪でイデアの世界を善とする善悪二元論の世界観、『国家』における認識論⑤
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