「ときには真珠のように」で本間丈太郎が残した言葉と生命の神秘、『ブラック・ジャック』の本間先生の言葉①
前回の記事で、尊厳死の背景には、人間の命は自分の自由にはならないものであると自覚し、天から与えられた最期の時が来たならば、それに不自然な形で抗うことなく、死を静かに受け入れることによって自らの生をまっとうしようとする仏教の悟りや諦観にも通じるような死生観があると書きました。
そして、そうした死生観の例として、手塚治虫の『ブラック・ジャック』においてブラック・ジャックの恩師である本間丈太郎の言葉として語られている「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という言葉を取り上げましたが、
『ブラック・ジャック』において、上記の言葉がそのままの形で語られているシーンは、「ときには真珠のように」と「本間血腫」という二つのエピソードの中に出てくることになります。
この言葉は、前者のエピソードの中では、実際に本間先生が臨終の際に残す言葉と、先生の死後に、その言葉をブラック・ジャック自身が本間先生の幻影を伴うような形で思い起こすシーンという二つのシーンにわたって、
後者のエピソードの中では、前者のエピソードの中で語られた本間先生の言葉をブラック・ジャックが最後に思い出すという回想シーンとして出てくることになるのですが、
このように、上記の本間先生の言葉は、『ブラック・ジャック』の中の二つのエピソードにおいて、合計三回のシーンにわたって現れることになるのです。
「ときには真珠のように」において本間丈太郎が残した言葉
ブラック・ジャックの特徴の一つともなっているつぎはぎの顔の傷跡の原因は、彼が幼少期に遭った不発弾の爆発事故にあるのですが、
そうした瀕死の状態にあった少年時代のブラック・ジャックの命を神がかり的な大手術によって救い出した命の恩人であり、彼が医者を志すきっかけを与えた人物が本間丈太郎と呼ばれる、同じ手塚治虫の作品における『火の鳥』の我王や猿田博士と同じ姿をした人物ということになります。
そして、
「ときには真珠のように」(『ブラック・ジャック』秋田書店、新書版第3巻、第25話、151頁~)のエピソードでは、
そのような恩師である本間先生からブラック・ジャックの家にカルシウムの鞘に包まれた手術道具のメスが送られてくることになるのですが、
このことを不審に思ったブラック・ジャックがすでに隠居していた本間先生の家を訪れるところから話が始まることになります。
老衰によってすでに臨終の床にあった本間先生は、少年時代のブラック・ジャックに対する過去の手術で、彼の体内にメスを置き忘れてしまうという重大なミスを犯しながらそれを隠し続け、手術から七年も経ってから術後の検査と偽って彼の体内からメスを摘出しながらそのことを黙っていたことを告白し、ブラック・ジャックに対して深く懺悔することになるのですが、
それと共に、本間先生は、自分がメスを彼の体内から摘出する際に体験した生命の神秘についても語り出すことになるのです。
真珠の意味と生命の神秘
本間先生の手によって少年であったブラック・ジャックの体内から取り出されたメスは、七年前に放置されたままの抜き身の姿ではなく、カルシウムの鞘に包まれた形で摘出されることになるのですが、
それは、体内に刃先の鋭いメスを放置されるという異常事態におかれたブラック・ジャックの体がその脅威から身を守るために、自らの体内からしみ出したカルシウムによってメスを鞘のように包んで保護するという生命の奇跡の結果であったと説明されることになります。
つまり、
まるで真珠貝が自分の体の中に入った異物を少しずつカルシウム成分で包んで自らの体内で真珠をつくり出すのと同じように、
ブラック・ジャックの体も、どんな天才的な名医でも思いつかないような不思議な力によって自分自身の命を精一杯守っていたということであり、
そのような生命の神秘の姿を目の当たりにしたということが、本間先生の口からブラック・ジャックに対して語られることになるのです。
そして、
今まで思い悩んできた自らの罪をブラック・ジャックに懺悔し、自分の思いを彼に伝えきることができたことで肩の荷が下りた本間丈太郎は、薄れゆく意識の中で以下のように語って臨終の時を迎えます。
「どんな医学だって、生命のふしぎにはかなわん」
「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」
そして、その後、ブラック・ジャックは、
老衰に伴う脳出血と脳軟化症によって意識不明の状態となった本間先生に対して、自分が知り得る医術の秘技の限りを尽くした完璧な手術を行い、先生を蘇生させようと試み続けるのですが、
天命によって死を迎えようとしている先生の命をこれ以上つなぎとめる手立ては残されておらず、本間先生はそのまま天に召されてしまうことになります。
つまり、このエピソードでは、
患者の体内にメスを置き忘れるという重大なミスがあった本間先生の不完全な手術であっても、自分自身の生命力が生み出した奇跡の力によって少年時代のブラック・ジャックの命は生かされ、
絶対にミスをすることがないブラック・ジャックの完璧な手術をもってしても、天命によって死すべき定めにあった本間先生の命は死を迎えることになるというように、
人間の生き死にを人知の力を超えて司る生命の神秘の力の存在が臨終の時を迎える本間先生の口を通じて語られていると考えられることになるのです。
そして、
自分の恩師であり、命の恩人でもあった本間先生を自らの手によって救うことができなかったことに打ちひしがれるブラック・ジャックは、重い足取りで扉をあけ、手術を終えた病院の外の石段で顔を伏せてかがみ込んでしまうことになるのですが、
そのような中、亡き恩師である本間先生の幻影が現れて、ブラック・ジャックのことを諭すかのように、また、慰めてもいるかのように彼の傍らに寄り添い、
本間丈太郎が臨終の時の最期の言葉として語った「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という言葉が改めて現れることで、この話は終わりを迎えることになるのです。
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このように、「ときには真珠のように」において本間丈太郎が残した「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」という言葉は、医学や人知を超えた生命の神秘に対する驚きと畏敬の念を表わす言葉として解釈することができると考えられることになるのですが、
本間先生の同じ言葉が出てくるもう一方のエピソードである「本間血腫」においては、こうした生きものにおける生命の神秘よりも、その対極にある死のあり方、すなわち、医学が人間の命に対して限りなく介入していこうとする際の人間にとっての死の尊厳という側面がより強調される形で、今回取り上げたのとまったく同じ本間先生の言葉が語り直されていくことになります。
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次回記事:「本間血腫」における本間先生の言葉の意味と人間の命の尊厳、『ブラック・ジャック』の本間先生の言葉②
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