安楽死が道徳的な殺人として容認される論理とは?なぜ人を殺してはいけないのか?という問いへの論理的解答②
前回書いたように、
「人を殺してはならない」という道徳命題は、
自分自身の生命の肯定と自己と他者の平等性の承認という二つの前提に基づいて論証することが可能であると考えられることになります。
そして、このことは、「人を殺してはならない」という殺人を悪として禁止する道徳律の根拠となっている上記の二つの前提命題のうち、いずれか一方が否定されるケースにおいては、殺人を悪とする禁止する道徳法則が必ずしも成立しない場合があり、
そうした例外的なケースにおいては、道徳的に許容される人道的な殺人行為といったものが成立するという解釈が成り立ちうるということを意味することになります。
一般的に、道徳的に許容されうる可能性のある殺人行為としては、安楽死や尊厳死、死刑制度が合法化されている場合の大量殺人犯などに対する法に基づく死刑の執行などが挙げられることになりますが、
今回は、その中でも最初に挙げたケースである安楽死が道徳的行為として許容されうる論理について考えてみたいと思います。
道徳的な殺人行為としての安楽死と尊厳死との関係
安楽死とは、回復の見込みのない不治の病に苦しむ重病人などに対して、本人の明確な意志による要請に基づいて、その苦しみを取り除くために人為的な方法によって苦痛を与えない死をもたらす行為であり、
それは、一言でいうと、苦痛からの解放と患者本人の人格の尊重と尊厳の維持という人道的目的のために行われる道徳的な殺人行為であると考えられることになります。
ちなみに、安楽死と類似する概念としては、尊厳死という概念も挙げられることになりますが、
尊厳死は、一般的に、消極的安楽死と呼ばれることもあるように、患者に対して毒薬を与えて積極的に死をもたらすような行為は行わないものの、その場で命を救うことができることが分かっていながら、相手がそのまま死んでいってしまうのを看過する行為ということになるので、
例えば、通常の殺人行為との対比において、生まれたままの赤ん坊をそのまま放置して見殺しにしてしまうような行為が、道徳的にはほとんど殺人に等しい行為であると感じられることもあるように、
それは、殺人行為そのものであるとは言えないまでも、それと同種の倫理的問題をはらんだ行為であると考えられることになるのです。
安楽死が道徳的な殺人として容認される論理とは?
そして、本人の同意と人道的意図に基づくものであるとはいえ、それが意図的に人間の命を奪う実質的な殺人行為である以上、
安楽死は、すべての人間が守るべき倫理の根本にある「人を殺してはならない」という道徳律に反する悪しき行為であるのではないか?という疑問が生じることになります。
しかし、ここで、
冒頭でも書いたように、「人を殺してはならない」という道徳律が、それ自体で自明の道徳法則として成り立っているわけではなく、
自分自身の生命の肯定と自己と他者の平等性の承認という二つの前提からの論証によって成立する道徳律であると解釈することができるとすると、
安楽死においては、患者自身の意志における自分自身の生命の肯定という第一の前提の方がすでに放棄された状態で人道的な意図に基づく実質的な殺人行為が行われるということになるので、
こうした事例においては、例外的なケースとして、道徳的な殺人行為としての安楽死が倫理的に許容されるという論理が十分に成り立つ可能性があると考えられることになります。
つまり、
患者当人の明確な意志に基づいて、患者自身のために安楽死が必要とされるケースにおいては、
患者自身の十分に塾考された継続的な意思のもとで、そのまま苦痛に満ちた自らの尊厳が傷つけられることになる生を保ち続けることが拒否され、
少し逆説的な言い方にはなりますが、むしろ、自分自身の生命と人生を肯定するためにこそ、尊厳のある安らかな状態としての死が求められることになるので、
こうしたケースにおいては、前提にある自分自身の生命の肯定という原理が持つ意味自体が変容することによって、「人を殺してはならない」という道徳法則自体が例外的に成立しなくなってしまい、
道徳的な殺人行為としての安楽死が倫理的に許容されることになると考えることが論理的には十分に可能であると考えられるのです。
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以上のように、
安楽死のように、患者当人の明確で継続的な意志に基づいて、本人の人格の尊重と尊厳の維持という人道的目的のために行われる行為においては、
「人を殺してはならない」という道徳法則が成立するための根拠となっている第一の前提である自分自身の生命の肯定という原理が持つ意味自体が変容し、殺人を悪として否定する根拠としては機能しなくなってしまうことによって、
道徳的な殺人行為としての安楽死が倫理的に許容される論理が成立しうると考えられることになります。
それでは、
「人を殺してはならない」という道徳法則が成立するためのもう一方の根拠となっている第二の前提である自己と他者の平等性の承認という原理の方が変容してしまうようなケースにおいては、具体的にどのような事態が生じることになるのか?ということについてですが、
そうした考察は、今度は、死刑制度の是非を論じる議論へとつながっていくと考えられることになります。
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次回記事:殺人犯への死刑執行が道徳的に是認されうる論拠とは?なぜ人を殺してはいけないのか?という問いへの論理的説明③
前回記事:なぜ人を殺してはいけないのか?という問いへの論理的解答①生命の肯定と自己と他者の平等性という二つの前提に基づく論理的証明
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