殺人犯への死刑執行が道徳的に是認されうる論拠とは?なぜ人を殺してはいけないのか?という問いへの論理的説明③
前々回の記事で書いたように、
「人を殺してはならない」という道徳法則の根拠には、自分自身の生命の肯定と自己と他者の平等性の承認という二つの前提が存在すると考えられることになります。
そして、このうちの第二の前提である自己と他者の平等性の原理が否定されることによって、例外的に実質的な殺人行為が容認される可能性があるケースとしては、
死刑制度が合法化されている場合における無差別大量殺人犯などに対する死刑執行などのケースが挙げられると考えられることになります。
相互的な承認関係によって成立する自己と他者の平等性の原理
日本を含むすべての近代法治国家の成立の背景にある政治理論である社会契約説においては、
社会と国家は、自由で平等な個人相互間の自由意思に基づく契約という相互的な承認関係を前提として形成されると解釈されることになります。
そして、
それと同様に、すべての自由で民主的な国家の前提には、自己と他者の平等性の原理が存在すると考えられることになりますが、
こうした社会と国家の成立の前提にある自己と他者の平等性の原理は、自然法や社会契約説によって規定されるあらゆる人権の定義と同様に、
社会や国家を構成している個人同士が互いに互いの権利を認め合うという相互的な承認関係において成立していると考えられることになります。
したがって、
人間は本性的に自由な存在であり、すべての人間は例外なく平等に扱われるべき権利を生得的に有すると考える場合でも、
そうした社会や国家における個人間の自由や平等性の原理の根拠として存在している互いの人権の相互的な承認関係という前提がすでに崩れ去っていると考えられる場合、
すなわち、双方向的な承認関係にあるどちらか一方が他方の権利を大きく侵害し、他者の権利を一方的に否定してしまうようなケースにおいては、
自分自身が他者と平等に尊重されるべきであるとする自己と他者の平等性の原理は、その人自身の手によってすでに放棄されてしまっているとも考えられることになるのです。
自己と他者の平等性の放棄に基づいて死刑執行が正当化される論理
そして、こうした社会と国家の成立の前提にある自己と他者の平等性の原理は、冒頭でも述べたように、「人を殺してはならない」という道徳法則が成立するための根拠ともなっていると考えられることになります。
それでは、こうした殺人を悪として禁止する道徳法則の根拠にある自己と他者の平等性という前提が当人自身の手によって完全に放棄されてしまうケースというのは、いったいどのような場合において成立すると考えられるのか?ということについてですが、
それは、端的に言えば、
本人自身の手によって他者における生命の肯定の原理が破壊されてしまったとき、すなわち、当人自身の手によって一般的な意味における殺人行為が行われたときということになります。
例えば、
当人の明確な意志に基づいて、自己防衛などの正当性のある理由もなしに行われる無差別大量殺人においては、他者の生存権は最大限に侵害され、他者が自分自身の命を尊重し、自らの生命を肯定しようとする意志自体が踏みにじられてしまうことになりますが、
そうすることによって、このような場合には、自分自身の命も他者の命と平等に尊重されるという自己と他者の平等性という前提自体が当人自身の手によって放棄されていると考えられることになります。
そして、そのようなケースでは、
「人を殺してはならない」という道徳法則の根拠となる第二の前提である自己と他者の平等性という前提自体が殺人を犯した当人自身の手によって放棄されてしまうことになるので、
法に基づく死刑執行によって、自分が殺した他者の命と同様に、自分自身の命をも奪われてしまうことが道徳的に是認される可能性があると考えられることになるのです。
・・・
殺人犯に対する死刑の執行を正当化する根拠としては、一般的には、ハンムラビ法典や旧約聖書において提示されている「目には目を、歯には歯を」といった同害復讐が根拠として用いられることになりますが、
上記のような考察に基づくと、むしろ、そうした同害復讐の原理に基づく死刑執行が道徳的に正当化されるためには、
殺人を否定する道徳律の根拠となっている第二の前提である自己と他者の平等性という前提の放棄が、当人自身の手によって、他者における生命の肯定の原理の否定と結びつく形でなされていることが必要であると考えられることになります。
つまり、
無差別大量殺人のように、ある人物が他者の生命を一方的に否定してしまうケースにおいては、自分自身が他の人々と同等の価値や権利を持つ存在として平等に扱われることをその人物自身の手によって放棄してしまっていることになるので、
そのようなケースにおいては、「人を殺してはならない」という道徳法則の根拠にある第二の前提である自己と他者の平等性という前提が当人自身の手によって放棄されてしまうことによって、
たとえ、当人が自らの死を望まず、強い恐怖や抵抗を感じている場合であっても、死刑の執行によってその人物の命を奪うことが道徳的に是認される可能性があると考えられることになるのです。
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次回記事:ハンムラビ法典と旧約聖書はどちらの方がより古いのか?
前回記事:安楽死が道徳的な殺人として容認される論理とは?なぜ人を殺してはいけないのか?という問いへの論理的解答②
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