パリの町の紋章の青と赤の由来とフランスの二人の守護聖人、フランス国旗の青・白・赤の本当の意味③
前回書いたように、
パリの町の紋章に青と赤の二色が使われるようになった経緯は、14世紀、イギリスとフランスの間で戦われた百年戦争期のパリ市民の指導者であったエティエンヌ・マルセルの時代までたどることができると考えられることになります。
それでは、さらにさかのぼって、
そうしたパリの町を表す色が青と赤の二色に定まったより詳細な理由、すなわち、パリの紋章に描かれた青と赤が象徴する具体的なものとはいったい何であったと考えられることになるのでしょうか?
パリの紋章に描かれた青と赤が象徴するフランスの二人の守護聖人
パリの紋章が青と赤の二色を基調として描かれるようになった理由については諸説あるのですが、それは一説には、フランスを守る二人の守護聖人を象徴する色であったとも考えられています。
その場合、
青は、4世紀頃のフランス中部の町トゥールの司教であったサン・マルティン(saint Martin、聖マルティヌス) を、
赤は、3世紀頃のパリの司教であったサン・ドニ(saint Denis、聖ディオニュシウス) のことを示していると考えられることになるのですが、
こうしたパリの紋章の色の由来となったとも考えられる古代フランスの二人の司教は、それぞれどのような時代を生きた、いかなる人物であったと考えられることになるのでしょうか?
<h3>サン・マルティンのガリア全土への布教活動と柔和で謙遜な人格</h3>
聖マルティヌスが生きていた4世紀、現在のフランスがいまだ強大な権力を誇るローマ帝国の支配下にあり、フランスではなくガリアと呼ばれていた時代、
それまで迫害の対象であったキリスト教は、313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって布告されたミラノ勅令によって帝国から公認され、ローマ本国と属州地域を含むローマ帝国内の全土において、キリスト教を信教する自由と布教の自由が広く認められることになります。
しかし、
当時のガリア地方を含むゲルマン系諸部族の間で広まっていたキリスト教はカトリック教会からは異端とされるアリウス派であり、
マルティヌスは、トゥールやポワティエ、カンドなどのフランス中部の諸都市を中心に伝道活動を広げることで、キリスト教の主流派であるアタナシウス派、すなわちカトリックへの人々の改宗を進めていくことになります。
柔和で謙遜な人格と慎ましい禁欲生活の実践、伝道先での病人に対する献身的な治療と看護によって人々の信望を集めたマルティヌスは、
やがて、トゥールの町の司教として迎えられ、そこを拠点として、さらにガリア全土へのカトリックの布教活動へと尽力していくことになります。
そして、
帝国の首都ローマへも度々訪問し、カトリック教会の発展に広く貢献したのち、マルティヌスはフランス中部の都市カンドで天寿を全うし、81歳でその生涯を終えることになりますが、
このように、
4世紀頃のトゥールの司教であったサン・マルティン(聖マルティヌス)は、ローマ帝国によるキリスト教公認後のフランスにおけるカトリック教会の発展の礎を築いた人物であったと考えられることになるのです。
サン・ドニが流す殉教の赤い血とパリのモンマルトルの丘
それに対して、
サン・ドニ、すなわち、聖ディオニュシウスが生きた3世紀のガリアは、デキウス帝からその後のディオクレティアヌス帝の大迫害へと続く、キリスト教徒がローマ帝国による迫害の真っただ中に置かれていた時代にあり、
聖ディオニュシウスは、こうした帝国からの迫害と絶えず戦い続けながら、パリを中心とするガリア各地でキリスト教の布教を行っていくことになります。
そして、
多くの人々をキリスト教への改宗へと導いたことで、ローマ帝国と異教徒たちからの激しい怒りと妬みをかったディオニュシウスは、ついに異教の僧侶たちの手によって捕らえられ、
最後まで彼に付き従い志を共にしたラスティークとエルテールという二人の司祭たちと共に、パリの町の一番高い丘の上へと引っ立てられ、この地で首を切り落されて殉教するという壮絶な最後を遂げることになるのです。
ちなみに、
フランスで国民的大ヒットを記録した映画『アメリ』の舞台となったことでも有名なモンマルトル(Montmartre)は、もともとMont des Martyrs(モン・デ・マルティール)を語源とする地名であり、
フランス語でMont は「丘」、Martyrは「殉教者」を意味する単語なので、モンマルトルは「殉教者の丘」という意味を持つ地名ということになりますが、
このモンマルトルの丘こそがサン・ドニが殉教によって命を落とした丘であったと考えられています。
サン・ドニと最後まで彼に付き従った司祭たちの篤い信仰心と気高い殉教の精神がパリの人々の心を打ち、忘れがたく思われたことから、この地がモンマルトルと呼ばれるようになったと考えられることになるのです。
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以上のように、
パリの町の紋章に描かれている青と赤の由来となった人物であったと考えられているサン・マルティンとサン・ドニという二人のフランスの守護聖人の生き方を見てみると、
パリの町の青は、フランスのカトリック教会の発展の礎を築いたサン・マルティンの柔和で謙遜な人格と献身的な奉仕の精神を象徴する色であり、
それに対して、
パリの紋章に描かれた赤は、キリスト教への迫害に対してその生涯を通して戦い続けたサン・ドニの情熱的な信仰心と、彼がフランスのキリスト教徒たちのために流した殉教の赤い血を象徴していると考えられることになります。
つまり、
古代フランスを導いた二人の偉大な司教の象徴としてサン・マルティンの青とサン・ドニの赤がパリの町を表す色とされ、
そうしたパリの町を象徴する青と赤の二色が、百年戦争の時代のパリ市民の指導者エティエンヌ・マルセルを通じて、フランス革命を象徴する色として用いられるようになり、
そこにさらに、古代フランスの王家を象徴する色である白が加えられることによって、フランスという国家全体の融和を象徴する青・白・赤のフランスの三色旗が生み出されたと考えられることになるのです。
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次回記事:自由・平等・博愛と友愛とではどちらが正しい訳なのか?フランス語のフラテルニテとラテン語のフラテルニタスが示す愛のあり方
前回記事:フランス革命の青と赤と百年戦争におけるパリ市民の指導者エティエンヌ・マルセル、フランス国旗の青・白・赤の本当の意味②
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