フランス革命の青と赤と百年戦争におけるパリ市民の指導者エティエンヌ・マルセル、フランス国旗の青・白・赤の本当の意味②
前回書いたように、
フランス国旗の青・白・赤の三色は、白がフランス歴代王家の紋章であった白百合に象徴される古代フランスの色であるのに対して、
青と赤の二色は、フランス革命の際に蜂起したパリ市民軍が自分たちの仲間を王党派と区別するための目印としてつけていた花形帽章(コケイド)の色に由来すると考えられることになります。
それでは、
フランス革命でパリの市民たちが蜂起した際に、その目印として、青と赤の二色が選ばれた背景には、具体的にどのような経緯があったと考えられることになるのでしょうか?
パリの町の紋章と百年戦争の時代のパリ市民の指導者エティエンヌ・マルセルの軌跡
フランス革命で用いられた青と赤の二色の目印は、もともと、革命の舞台となったパリの町自体を象徴する紋章の色でもあったのですが、
パリの町の紋章として青と赤の二色が使われるようになったのは、古くは、14世紀の百年戦争の時代の最中、パリの商人頭として一時的にパリの町全体を支配下に置き、
王政と貴族政治の打破とパリの町の自治と自立化を目指して戦ったエティエンヌ・マルセル(Étienne Marcel)の時代にまでさかのぼることができると考えられることになります。
パリの商人頭という実質的なパリ市長の立場にあったエティエンヌ・マルセルは、自らは商人の出自でありながら、ヨーロッパ全土に広がる商業圏とそれがもたらす富を背景にフランス王国全体の財政にまで深く関与していくようになります。
そして、マルセルは、
当時のフランス国王ジャン2世がイギリスと戦うための戦費調達のために新たな徴税を行おうとする際に、これに公然と異を唱え、租税や徴兵に関する議会の発言権を拡大する政治改革を行おうと尽力していくことになるのですが、
このことが王権の拡大と安定化を目指す王太子シャルル(のちのシャルル5世)との間の対立を招くようになります。
すると、このような情勢の中、
1357年、エティエンヌ・マルセルは、ついに、パリの商人たちを主導して王政に反旗を翻し、商人とパリ市民たちの手によるパリの町の自治支配を目指すことを決断することになります。
そして、その翌年の1358年、圧政を敷き重税を課す貴族に対する大規模な農民反乱であるジャックリーの乱がパリとも隣接するフランス北東部で発生すると、マルセルは、彼らとも共闘して王権と貴族政治の打破を目指すことになるのです。
しかし、
長引く百年戦争の最中にあって戦闘経験が豊富な貴族軍の兵士に対して、数では優るが烏合の衆に過ぎない農民兵が打ち破られて敗走すると、パリの町にも動揺が広がるようになり、
求心力を失ったマルセルは、味方であったはずのパリの東側を守るポルト・サン・アントワーヌ(Porte Saint-Antoine、サン・アントワーヌ門)の守備隊長の手によって暗殺され、志半ばでその生涯を閉じることになります。
そして、
こうした混迷の中にあった、エティエンヌ・マルセルが生きた百年戦争時代のパリの町において、王政や貴族による支配との区別を表す意味でも用いられていたパリの町の紋章が青と赤の二色を目印に描かれていたと考えられることになるのです。
エティエンヌ・マルセルとフランス革命の関係とは?
ちなみに、
百年戦争の時代のパリ市民の指導者であったエティエンヌ・マルセルは、後世においては、フランス革命を主導した政治家の一人であるジョルジュ・ダントン(Georges Danton)の名になぞらえて「中世のダントン」などと呼ばれることもあります。
フランス革命を主導した主要な人物としては、マラー、ダントン、ロベスピエールという三人のジャコバン派の政治家の名が挙げられることになりますが、
エティエンヌ・マルセルの死後も、1789年に始まるフランス革命までの間に、パリでは何度も重税や王政、貴族による支配に反対する市民蜂起が繰り返されていくことになるように、
マルセルは、そうしたパリにおける市民革命の先駆けとなる存在であったとも捉えられることになるのです。
また、
フランス革命の発端となった場所であるバスティーユ牢獄はパリの東部にあたるサン・アントワーヌ地区に位置しているのですが、
このサン・アントワーヌ地区を守る城門こそが、百年戦争の時代にエティエンヌ・マルセルが暗殺されたポルト・サン・アントワーヌ(サン・アントワーヌ門)であったということになります。
そういう意味では、
フランス革命の発端となったパリ市民たちの蜂起によるバスティーユ牢獄の襲撃は、
百年戦争の時代に、市民革命の先駆者であったエティエンヌ・マルセルが王党派の手にかかって暗殺され、その夢がついえた地であるサン・アントワーヌが、
400年の時を越えて、再びパリ市民たちの手に取り戻された戦いであったと捉えることができるかもしれません。
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以上のように、
パリの町を象徴する紋章が青と赤の二色を目印に描かれるようになった経緯は、14世紀、百年戦争の時代のパリ市民の指導者エティエンヌ・マルセルにまでさかのぼることができると考えられることになります。
そして、
エティエンヌ・マルセルが圧政を敷き重税を課す王政の打破とパリ市民たちの手によるパリの町の自治支配を目指した、パリにおける市民革命の先駆けとなる存在であったとも捉えることができるように、
フランス革命の時代のパリ市民たちも、そうしたパリの町の自由で進歩的な気質を受け継いだうえで、自由と自治の象徴でもある青と赤のパリの色を掲げて時の王政に対して公然と反旗を翻し、革命を成し遂げていったと考えられることになるのです。
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次回記事:パリの町の紋章の青と赤の由来とフランスの二人の守護聖人、フランス国旗の青・白・赤の本当の意味③
前回記事:フランス国旗の青・白・赤の本当の意味と由来とは?①古代フランスを象徴する白とフランス革命を象徴する青と赤の融和
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