逆転写酵素とは何か?ウイルスが細胞の遺伝情報を書き換えていく具体的な仕組みとは?
前回書いたように、
ウイルスの遺伝子構造の分類は、遺伝子を構成する遺伝物質の違いによって、
DNA(デオキシリボ核酸)を遺伝物質とするDNAウイルスと、RNA(リボ核酸)を遺伝物質とするRNAウイルスという二種類のタイプに大別されることになります。
そして、
ウイルスの分類は、二本鎖か一本鎖かという遺伝子の立体構造の違いや、遺伝子が直接読み取られる側か鋳型の側かの違いとしての+鎖と–鎖の違い、さらには、逆転写酵素と呼ばれる酵素の存在の有無などに応じて、
ボルティモア分類と呼ばれる七つの下位分類へとさらに細かく分けられることになるのですが、
こうしたウイルスの分類の基準としても挙げられている逆転写酵素とは、具体的にどのような働きを持つ酵素なのでしょうか?
逆転写酵素による遺伝子合成が「逆方向からの転写」とされる理由とは?
逆転写酵素(Reverse transcriptase、リバース・トランスクリプターゼ)とは、
1970年に、その発見によりのちにノーベル生理学医学賞を受賞した分子生物学者であるハワード・マーティン・テミン(Howard Martin Temin)とデビッド・ボルティモア(David Baltimore)によってそれぞれ別々に発見された酵素です。
逆転写酵素は、具体的な機能としては、RNAを鋳型としてDNA を合成する働きを持つ酵素であり、
一部のウイルスが自分のRNA遺伝子を寄生する相手である宿主の細胞のDNA遺伝子に組み入れるときに用いられることになります。
それでは、
なぜウイルスが持つこうした酵素が「逆転写酵素」、すなわち、「逆方向」からの「転写(遺伝子合成)」を行う「酵素」であると言われるのか?ということですが、
その理由は、生物の細胞における通常の遺伝子合成のあり方との対比に求められると考えられることになります。
生物において遺伝子は、遺伝情報が格納された原本である頑丈な二重らせん構造をした二本鎖DNAから一本鎖RNAへとコピーされ、
このDNAから転写されたRNAを伝令役として必要な遺伝情報がタンパク質の合成を行う工場であるリボソームへと伝えられ、細胞内での適切なタンパク質の生産が進められていくことになります。
このように、
生物の細胞における通常の遺伝子合成においては、
遺伝情報は、原本であるDNAからコピーであるRNAへと一方的に転写されることになり、その逆にRNAの方からDNAが合成されることはありません。
しかし、それに対して、
一部のウイルスが持つ逆転写酵素の働きによるによる遺伝子合成においては、
本来は単なるコピーであるはずのRNAの方からDNAが合成されてしまうという通常とは逆方向からの遺伝子合成が行われることになるので、これが「逆転写酵素」という名前の由来であると考えられることになるのです。
より分かりやすい比喩として、生物の細胞が持つ遺伝情報の総体を図書館全体の蔵書にたとえるとするならば、
細胞図書館の正当な業務においては、図書館の蔵書であり原本であるDNAが必要に応じて利用者へと貸し出され、RNAへとコピーが取られることによって、適切な遺伝情報の運用がなされていくことになるのですが、
一部のウイルスは、図書館の正当な利用者に紛れ込み、館内の奥深くへと潜り込んで、図書館の蔵書のコピーであるRNAと自分の遺伝情報が記されたRNAとをすり替えてしまい、
その偽のRNA情報と逆転写酵素という合鍵を使って元の蔵書に書き込まれていたDNA情報自体を自分に有利な情報へと書き換えることによって、細胞図書館の蔵書の内容自体を改ざんしてしまっていると考えられることになるのです。
逆転写酵素を持つ代表的なウイルスとHIVウイルスが宿主細胞を乗っ取る仕組み
そして、
こうした逆転写酵素を持つ代表的なウイルスとしては、
エイズ(後天性免疫不全症候群)の原因となるHIVウイルスなどのレトロウイルス(Retrovirus)※や、B型肝炎ウイルスなどが挙げられることになります。
※Retrovirusのretro(レトロ)とは、英語で「元にさかのぼって」「逆に」を意味する単語であり、Retrovirusはその名の通り、逆転写酵素を持つウイルスのことを意味する言葉ということになります。
逆転写酵素を持たない普通のウイルスの場合は、宿主となる細胞の核内に自分の遺伝子を一気に送り込み、いわば細胞のタンパク質生産工場を直接乗っ取ってしまう形でウイルスの増殖が急速に進んで行くことになるのですが、
それに対して、
逆転写酵素を持つレトロウイルスなどのウイルスの場合は、宿主となる細胞に侵入しても、一気に細胞の工場を乗っ取ってすぐに食いつくしてしまうようなことはせずに、
逆転写酵素を使って宿主の細胞の遺伝情報を自分に有利な遺伝情報へと少しずつ書き換えていくことによって、時間をかけてゆっくりとウイルスが効率的に増殖することができるようにするための準備が進められていくことになります。
逆転写酵素を持つウイルスのうち、例えば、HIVウイルスの特徴としては、
潜伏期間が5年から10年と非常に長い代わりに、長い時間をかけて宿主となる生物の細胞の奥深くへと潜り込んで確実に感染を広げていき、一度感染すると完治がほとんど不可能となることが挙げられることになりますが、
こうしたHIVウイルスの特徴も、逆転写酵素を使ってウイルスが自らの遺伝子情報を宿主となる細胞の内部に巧みに組み込んでいく仕組みによって説明されると考えられることになるのです。
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以上のように、
HIVウイルスやB型肝炎ウイルスなどの逆転写酵素を持つウイルスの場合は、
通常のウイルスの増殖におけるように、一気に細胞の工場を乗っ取ってしまうような暴力的な形で急速に細胞の乗っ取りが進められることはないのですが、
その代わり、
細胞図書館に収められた膨大な蔵書の一冊一冊に逆転写酵素を使ってアクセスし、原本の内容を自分に有利な遺伝情報へと改ざんしていくことによって、
ゆっくりとしかし確実に細胞の乗っ取りが進められていくことになるのです。
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次回記事:ボルティモア分類におけるウイルスの遺伝子構造の四つの違いと七つの分類とは?DNAウイルスとRNAウイルス⑪
前回記事:DNAなのに一本鎖の遺伝子構造を持ったウイルスとRNAなのに二本鎖の遺伝子構造ウイルスとは?DNAウイルスとRNAウイルス⑩
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