「善く生きる」とは哲学における際限なき知の探究の営みそのもののこと、善く生きるとは何か?⑤
前回書いたように、
人間の知は、完全なる神の知へは到達し得ない以上、それは普遍的真理としての完全なる善についての知へ至ることもあり得ないと考えられることになります。
そして、そうであるがゆえに、
善く生きることと、その前提となる善なる徳の習得は、知の内容それ自体ではなく、知の学び方や求め方といった知の探究のあり方によってもたらされると考えられることになるのです。
ソクラテスのエレンコスと無知の知に基づく知の吟味と探究への道
ソクラテスは、人々と対話し、特に、賢者や知恵者と呼ばれる人々の知のあり方を反駁していくことによって、自他の知のあり方を吟味していくエレンコス(elenchos)と呼ばれる知の吟味と論駁の営みを自らの哲学活動の中心にすえていましたが、
そうしたことからも分かるように、
善く生きるための前提となる善についての知については、そうした知の内容について単に頭で知っていればいいというわけではなく、議論や論駁を通じて、自他の知のあり方を吟味するという知の探究のあり方が重視されることになります。
例えば、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」あるいは、さらに「なぜ自殺してはならないのか?」といった倫理的な命題について、
人を殺してはいけない、自殺をしてはならないということを単に頭で知識として知っていることと、人生の様々な場面で折に触れてそうした命題を自分のこととして深く考え、自らの考えとしてそうした倫理的な決断を下すのとでは、
「人を殺してはいけない」、「自殺をしてはならない」という同じ知の内容であっても、その知の吟味のあり方、すなわち、自らの心の内に知が自分のものとして体得されていくあり方に大きな違いが生じてくると考えられるようにです。
真なる意味で何が善であるかを知りながら、みすみす悪の道へと走ってしまうということは決してあり得ないというソクラテスの主知主義のパラドックスの議論を紹介しましたが、
この議論について改めて、上述した知の吟味のあり方と、自らの無知の知の自覚という観点から捉え直してみると以下のようになります。
もし、自分は何が善で何が悪かは分かっていたが、それでも善をなさずに悪を行ってしまったと主張する人がいる場合、
その人は、確かに、頭の中の知識としては、何が善で何が悪かという知識を持っていて、それを単なる文言としては覚えていたのかもしれませんが、
その知識を自分のものとして自らの心の内に受け止め、その知について自分自身でよく考えて吟味するという善についての知の探究のあり方が十分には足りていなかったと考えられることになります。
つまり、
その人は、善悪については、頭では知っていても、心では知ろうとはしていない状態、すなわち、その知識を真の意味で深く吟味し、自分のこととして深く考えることはしていない状態にあり、
言うなれば、
人から聞いた知識や借り物の知識を丸暗記しているだけで、自分の頭では何も考えていないといった状態にあったと考えられるということです。
そして、そういう意味では、
自分は何が善であるかが分かっていながら、あえて悪を行ったと主張する人は、
善なることについて知っているつもりでいながら、真なる意味ではそれについて何も知っていない自覚のない無知という善についての無知の中でもより程度の悪い無知の状態にあったと考えられるのです。
つまり、
善なる徳を身につけ、善く生きるという生のあり方を実現していくための知の探究においては、
自分が神の知である完全なる善についての知へは至っていないという意味では、いまだに無知のままであり続けていることを深く自覚しながら、
その無知を絶えず乗り越え続けていくことを目指して新たな知の吟味と探究の道へとさらに進んでいくことが必要であり、
そうした神の完全なる知についての無知の知の自覚を前提とする知の吟味と探究の営みにおいて、はじめて、自らの魂をより善いものへと導き、より善く生きていくことが可能となると考えられるということです。
「善く生きる」ことと哲学における際限なき知の探究の営み
このように、
同じ内容の知識であったとしても、単なる文言として頭で暗記しただけの知識と、人生の中で自分の心の内で深く吟味し続けた知とでは、その知についての思考の深さに大きな違いがあると考えられることになります。
そして、
人間の生に善なる徳をもたらし、善く生きることを実現するためには、
そのような、人から聞かされたことを鵜呑みにして丸暗記するだけの受動的な知ではなく、
他者や自分自身の心との対話に基づく知の吟味と論駁によってもたらされる能動的で主体的な知こそが必要と考えられることになるのです。
つまり、
一般的な学習塾などで講師から受験に役立つ知識を教わったり、テストに向けてその知識を丸暗記することで得られる知とは異なり、
家族や友人といった自分が信頼する人々や自分自身の魂との静かな対話を通じて、自分自身の思考によって自らの手で見いだしていく能動的で主体的な知こそが善く生きることに直接つながるソクラテスが求めていた真実の知であると考えられるということです。
もちろん、
どこまで時代が進んでいっても、世界には、何が善で何が悪なのか?何が真実で何が偽りなのか?といった問いについての議論が尽きることはなく、
人間の知性が神の知性とは異なる限られた不完全なものである以上、そうした問いのすべてについて完全に正しいと言い切れる結論を出すことは不可能と考えられることになります。
したがって、
そうした普遍的な善と普遍的な真理、すなわち、善美なるものを求める真実の知への探求は、決して終わることがなく、
自分自身の魂との際限なき対話が、その命が尽き果てるまで、あるいは、その後にも延々と続いていくことになるのですが、
そうした真実の知を求め、行きつ戻りつしながら自らの魂を洗練させ続けていく際限なき探究の営みこそが、善く生きるという生き方そのものであると捉えられることになるのです。
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ソクラテスは、裁判の中で自らに有罪判決が下り、ついに死刑判決が下されようとする運命の時が迫る中で、以下のような言葉を残しています。
人間にとっての最大の善というのは、日々、徳(アレテー)について語ること、また、私が自他を吟味するのを諸君が聞いたようなその他の事柄について語ることであって、そうした魂の探求なき生活は人間にとって生きるに値しないものなのである。
このように言うと、私の言葉は諸君にとっていっそう受け取り難いものになるだろう。しかし、それにもかかわらず、それは私の言う通りなのである。ただし、それを諸君に信じさせることが容易ではないだけなのである。
(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第28節)
このようにソクラテス自身が語っているように、
「善く生きる」とは、善なる徳(アレテー)についての議論と論駁を通じた探究、そして自他の知の吟味としての魂の探究と直結する生き方であり、
そういう意味では、
そうした知の探究と知の愛求(philosophia、フィロソフィア)、すなわち哲学の営みそのものが善く生きるという生き方の内実そのものであると考えられることになるのです。
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このシリーズの初回記事:善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道
前回記事:神の知における完全な善と人の知における不完全な善の違い、善く生きるとは何か?④
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