神の知における完全な善と人の知における不完全な善の違い、善く生きるとは何か?④
前回書いたように、
ソクラテスの主知主義においては、普遍的真理としての善なる知(ソフィア)と善なる行動をもたらす徳(アレテー)は一致すると考えられることになります。
そして、
こうした普遍的真理としての完全な善についての知は、善の行動と善なる生へと直結していくことになるので、
完全な善についての知を有する人は、いかなる意味においても悪しき行為を行うことがなく、完全なる善の生を全うすると考えられることになります。
つまり、
普遍的真理としての完全な善についての知を獲得するということは、全知全能である神と同等の知を手にし、神と同等の認識へと到達したことを意味することになるので、
そこにおいてはもはや、不合理で無抑制な行動である悪しき行為は、選択される余地自体が必然的になくなると考えられるということです。
神の知における完全なる善と人の知における不完全な善
しかし、
そうした完全な善についての知は、それが神の知である以上、
能力の限られた有限なる存在である人間にとっては、その限られた短い生の間には、到底到達し得ない領域にある知であるとも考えられることになります。
例えば、
前回取り上げた、翌日仕事があるのに食べ過ぎたり飲みすぎたりしてしまうといった無抑制な行動の例で言うならば、
確かに、
神の知性においては、すべての物事が一挙に把握され、それぞれの行動とそれによってもたらされるすべての結果の善悪が完全に吟味され尽くすことになるので、
そうした神のごとき認識においては、自分が過去になしたことに対する後悔も、そうした後悔をもたらすことになる誤った選択も、そうしたことの存在自体からあり得ないと考えられることになります。
一方、
人間の知性は、神の知性とは異なりその能力が限られていて、すべての物事を一挙に把握することもできなければ、それぞれの出来事における善悪の吟味を完全に成し遂げることもできないので、
無意識の中では、これ以上、無抑制に飲んだり食べたりしていては、二日酔いや胃もたれなどで明日困ることになるかもしれないとは薄々気づいていても、
そうした認識自体が意識から取り去られてしまい、まあいいか、きっと何とかなるだろうと現在の欲求を優先してしまって、そのことを明日になってから後悔するという悪しき行動選択の可能性からは逃れきることはできないと考えられることになります。
つまり、
確かに、善なる知が十全なる知の吟味の末に普遍的真理へと到達することができるとするならば、そこでは悪しき行為が選択される可能性自体が消滅することになるので、
そうした十全で完全なる善の知においては、ソクラテスの言うように、知は徳と一致し、完全な善についての知を有することのみによって、完全に善なる生が全うされることになるのですが、
実際には、
人間の知性が限られた不完全なものである以上、そうした神のごとき完全なる善の知を獲得することは不可能であり、
そもそも、そうした完全なる知を得るための十全なる知の吟味自体も不可能であると考えられということです。
そして、
そうした十全なる知の吟味と完全な善についての知の獲得が不可能である以上、人間の知における善はどこまでも行っても不完全な善のままにとどまり続けることになり、
善についての徳を完全に身につけることもできなければ、善なる生を全うすることもできずに、人間の魂は、その悪しきあり方からいつまでも抜け出しきることができない不完全な善と不完全な悪の状態のままに永久に囚われ続けることになると考えられるのです。
・・・
それでは、
そうした人知が到達し得ない知の領域にある普遍的真理としての完全な善についての知については、それについて考えること自体がまったくの無駄であり、
善なる知を求め、それを吟味するあらゆる探究の努力が結局はすべて徒労に終わることになってしまうのかというと、必ずしもそうではなく、
そうした善なる知についての探究の意味は、知のあり方それ自体ではなく、知の学び方や知の求め方において見いだされていくことになります。
そして、それは、
ソクラテスの無知の知と呼ばれる知のあり方や、エレンコス(elenchos)と呼ばれる知の吟味と論駁としての哲学探究のあり方とも深く関連していくことになるのです。
・・・
次回記事:「善く生きる」とは哲学における際限なき知の探究の営みそのもののこと、善く生きるとは何か?⑤
前回記事:ソクラテスの主知主義のパラドックスの論理整合的な解釈と普遍的真理としての善なる知、善く生きるとは何か?③
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