ソクラテスの哲学の概要
ソクラテス(Sokrates、紀元前470年~紀元前399年)は
紀元前5世紀後半の古代ギリシアの哲学者であり、
ギリシア南東部の都市国家アテナイ(Athenai、現在のギリシャ共和国の首都アテネ(Athens))の出身です。
ソクラテスの哲学思想は、その300年後の時代を生きた古代ローマ随一の雄弁家にして政治家であるキケロによって「哲学を天上(の世界)から人間と道徳(の世界)へと引き戻した」と讃えられることになりますが、
そういう意味では、彼は、人倫の哲学、すなわち、古代ギリシアにおける倫理学の祖であったと考えることもできるかもしれません。
彼は、石工であった父ソプロニスコスと助産師であった母パイナレテの間に生まれ、ペロポネソス戦争などにおいて重装歩兵として従軍したのち、
友人のカイレポンがデルポイの神殿で授かった神託の真意を確かめるために、アテナイそしてギリシア各地に住む賢者や知者と呼ばれるあらゆる人々のもとを訪ねて回り、彼らとの対話によって人間の知のあり方を探究していく知の探究の旅へと赴くことになります。
こうした知の探究の旅を通じて、ソクラテスは、知者と呼ばれる人々の知のあり方を論駁し、その無知である部分を明らかにしていくことによって自他の知のあり方の吟味を進めていくことになるのですが、
こうしたソクラテスによる知の探究のあり方を不満に思い、自らの無知を暴かれたことに対して恨みや憎しみさえ抱く扇動者たちの手によって、彼は偽りの罪による告発を受けることになります。
そして、
自らの思想によってアテナイの青年たちを堕落させ、国家が認める神々を認めずに新たなダイモーン(神霊)を信仰するという不敬神の罪によって告発されたソクラテスは、
アテナイの市民たちの手によって民衆法廷の場で裁判にかけられ、最終的に死刑判決を受けることになります。
彼には、裁判において自らの信念を曲げて罪を認めてしまえば、国外追放への減刑を受ける手段もあり、また、投獄された後の段階においても、法を破って脱獄する機会は十分に与えられていたのですが、
「悪法もまた法なり」という格言としても知られているように、ソクラテスは、法を破るという不正を犯してまで生きのびることを良しとせず、
アテナイの市民たちが自分に対して下した死刑判決にそのまま粛々と従い、
紀元前399年に、毒人参の杯をあおいで死を迎えることによって、その生涯を閉じることになるのです。
ソクラテスの哲学の概要
ソクラテスの哲学の特徴については、彼がその生涯において自分自身の手では一冊の著作も残していないこともあり、その思想の具体的な内容を正確に知ることは難しいのですが、
ソクラテスの場合、その思想のあり方は、具体的な思想内容自体よりも、哲学的真理を探究していく知の探究のあり方、その探究方法に大きな特徴があると考えられることになります。
先ほど述べたように、ソクラテスは、ギリシア各地で知者と呼ばれている人々のもとを訪ねて回り、その知のあり方を論駁していくことによって、自らの知の探究を進めていくことになるのですが、
こうしたソクラテスの知の探究において用いられていた方法論が、ソクラテスの問答法と呼ばれる一連の対話と論駁の方法論ということになります。
ソクラテスの問答法は、彼の母の職業にちなんでソクラテスの産婆術とも名づけられているのですが、
演繹的推論を多用するこうした一連の対話と論駁の議論を通じて、ソクラテスは、自らの知の探究を進めていくことになるのです。
そして、
ソクラテスがこうした対話と論駁の議論を通じて求めていた知のあり方とは、一般的には「無知の知」と呼ばれることが多い知のあり方ということになるのですが、
それはより正確に言うならば、善美なるものについての包括的で普遍的な知についての自らの無知を自覚したうえで、
そうした自らが無知である善美なるものの普遍的真理についての探究を進めていくという人間の知のあり方自体の探究であったと考えられることになります。
そして、さらに、ソクラテスは、
こうした善美なるものについての知の探究を進めていくことを通じて、人間は善美なる知に基づいていかにして善く生きることができるのか?という人間の生き方自体の探究を進めていったとも考えられることになるのですが、
そういう意味では、ソクラテスは、
「無知の知」と呼ばれる人間の知のあり方と、善美なるものの普遍的真理についての探究を進めていくことによって、
自らの一生をかけて、自分自身そして一人一人の人間が善く生きることを追い求め続けた哲学者であったと考えられることになるのです。
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