ソクラテスの主知主義のパラドックスの論理整合的な解釈と普遍的真理としての善なる知、善く生きるとは何か?③
人間の魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、善なるものについての知を得ることによってのみもたらされるとするソクラテスの知徳一致の思想は、
さらに、善なる知からは必ず善なる徳、そして、善なる行いがもたらされるとする主知主義の思想へとつながっていきます。
そして、
こうした考え方は、ソクラテスのパラドックス、または、主知主義のパラドックスなどと呼ばれる議論へと結びついていくことになります。
善についての知と行いの一致としてのソクラテスの主知主義
前回も書いたように、知と徳、知識と行動の関係については、
通常は、知識をもっていることとその知識に基づいて行動することは必ずしも直接的には結びつかない問題であると考えられることになります。
例えば、
私たちは、地球一周がおよそ4万キロメートルであることを知識として知っているとしても、だからといって、実際に地球を一周してその長さを測ってみた人はほとんどいないように、
人は、必ずしも自分が知っていることのすべてを実際に行うわけではなく、通常の知識については、それを知っていることと実際に行うこととはまったく別次元の問題であると考えられるということです。
しかし、それに対して、
少なくとも、善に関する知識と行いについては、
両者は必ず一致する、
つまり、
善なることを知っていながら、それを自分の人生においては実際には行わずにいることや、真なる意味で何が善であるかを知りつつも、みすみす悪の道へと走ってしまうということは決してあり得ない
というのがソクラテスの主知主義における強い主張ということになります。
このように、
通常の知については、知を持っていることとその知に基づいて行動することは別問題であると思われるのに、善に関する知と行いについては両者が直接結びつき、善なる知を持つ人は必ずその知に基づいて善なる行動をするというソクラテスの主張は、一見すると矛盾する逆説的な主張であるようにも思われるわけですが、
こうしたソクラテスの主知主義のパラドックスは、どのようにして論理整合的に解釈することができるのでしょうか?
無抑制の克服と知の吟味に基づく普遍的な善なる知
そこで、まず、
人間が一般的に自らの知識と認識に反する行動をとってしまうとされる場合について考えてみると、
人が、自分では何をするのが善いことであるのか分かっているつもりでいながら、それに反して悪しきことを行ってしまう時、その人は、無抑制(akarasia、アカラシア)の状態にあると考えられることなります。
例えば、
明日仕事があるのに、前日についついお酒を飲み過ぎたり食べ過ぎたりしてしまって、翌日、二日酔いや胃もたれなどで、前日あんなに食べたり飲んだりしなければよかったと後悔するのは、
通常は、自分の行動を知識によって制御できない無抑制の典型例にあたると考えられることになります。
しかし、
よく考えてみると、翌日忙しい時にはお酒は飲まずに食事も何時までと明確なルールを決めておくとか、そもそもお酒は買いだめをせずに、飲める日に飲んでいい量だけを買うことにするというように、
事前にもっとよく吟味した計画を立てていれば、無理にその場で飲むか飲まざるかの感情的な葛藤を繰り広げなくても翌日仕事がある場合のお酒の飲みすぎや食べ過ぎを避けることはある程度可能と考えられることになります。
つまり、
翌日仕事がある場合にもついつい飲みすぎたり食べ過ぎたりしてしまうことの背景には、単に飲みたい食べたいといった欲求や感情を抑えきれないという無抑制の問題だけではなく、
それぞれの場合に、どのような選択をするのがより良い結果へと結びつきやすくなるのか?ということについての十分な知の吟味が不足しているという問題が根本にはあり、
そのために、後で後悔をすることになる悪い結果を招きやすい行動選択がなされてしまうと考えられることになるということです。
そして、それと同様に、
口論がエスカレートして思わず相手と殴り合いの喧嘩をしてしまったといったより倫理的問題が大きく関わるケースにおいても、
それは、単なる感情の抑制の問題としてだけではなく、自他の知のあり方の吟味の問題としても捉えられることになります。
つまり、
自分の発言が相手にどのように受け取られ、相手の発言がどのような意図によってなされているのか?といったことについての自他の知のあり方のより深い吟味ができていれば、殴り合いの喧嘩といった事態を避けることはできたと考えられ、
少なくとも、そういった破壊的な事態へと至ってしまう前に、互いに自制を促したり、口論がヒートアップする前に、いったん議論を打ち切って、場を改めるといった方策をとることは可能であったと考えられるということです。
いずれにせよ、このように、
その物事が何であるか?といった技術や教養についての一般的な知識ではなく、
どうするのが善いことなのか?といった道徳や倫理、善悪の知については、
それは、十全なる知の吟味によって、知ることが知っている通りに行動することへと直結してくる問題でもあると捉えられることになります。
つまり、
十分な知の吟味を経ることによって普遍的で十全なる善なる知へと限りなく近づくことができるとしたならば、
そこにはもはや、感情や欲求のその時々の制御といった偶然性の付け入る隙はなくなることになり、
そうした普遍的真理としての善なる知のみによって、善なる徳の完全なる習得とそうした知に基づく善なる生が全うされると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
ソクラテスにおいては、普遍的真理としての善なる知においては、
徳(arete、アレテー)と知(sophia、ソフィア)は一致し、
そうした善なるものについての知をもっていることが
善く生きるための必要十分条件となっていると考えられることになるのです。
そして、
こうした普遍的真理としての善なる知とは、それが普遍的で絶対的な十全なる知である以上、神が有する善悪についての十全なる認識、すなわち、神の知のあり方とも一致する知のことを意味することになるのですが、
そうすると、次に、
普遍的真理としての善なる知によって善なる行動が必然的にもたらされるとしても、そうした知のあり方が神の知のあり方でもあるとするならば、
果たして、限られた人間の知性において、そうした全能なる神の知性における知のあり方へと到達することが可能なのか?という問題が生じてくることになります。
・・・
次回記事:神の知における完全な善と人の知における不完全な善の違い、善く生きるとは何か?④
前回記事:善く生きるとは何か?②四元徳に基づく善い生き方とソクラテスにおける知徳一致の思想
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