世界は人間精神と言葉の力によって成り立っている?「人間は万物の尺度である」プロタゴラスの箴言②
前回の最後で、プロタゴラスの
「人間は万物の尺度である」であるという言葉は、
人間が社会におけるあらゆる価値についての尺度となっているだけではなく、
世界におけるすべての事実の根源的基準にもなっていると解釈することもできると書きました。
しかし、
社会における価値が人間同士の説得や新たな合意形成によっていかようにも変容し得るのに対して、
例えば、
どんなに社会における価値観が移り変わっていっても、
太陽が東から昇り、西へと沈むという物理現象自体を変えることはできないと考えられるように、
世界における事実というのは、一見すると、人間がいくら言論を駆使してその論駁を試みても、覆すことはできない確固たるものとして存在しているようにも思えることになります。
それでは、
いったいどうやって、人間精神がその言葉の力のみによって
世界における事実自体を自在に変容させることが可能となると考えることができるのか?ということについて、これから考えてみたいと思います。
人間の生き死における同じ現象からの二つの異なる事実の帰結
肉体の死後にも魂の生は続くのか?という
人間の生き死における事実の問題について考えるとき、
単純に考えれば、死後にも魂が存続しているのかどうかは、
魂の存在を示す証拠が見つかればそれは存在するし、証拠がどこにも見つかられなければ存在しないという事実が結論として導かれることになるはずですが、
実際には、そう簡単にはうまく事は運ばないと考えられます。
例えば、
誰かが亡くなったとき、まだそのことを知らない人物の夢の中などに亡くなった人が現れ、自分が死んだことや思い残したことなどが告げられることを夢枕に立つなどと言いますが、
そうした夢枕や、臨死体験の報告などは、死後の魂の存続を信じる人々にとっては、
まさにそうした事実が魂の存在を示す証拠として受け入れられることになります。
しかし、その一方で、
同じ夢枕や臨死体験の報告を受けても、魂の存在を否定する人々は、
そのような現象は脳が作り出した幻覚や偶然の一致に過ぎないと主張し、
そうした報告は魂の存在証明にはならないものとして退けられることになります。
つまり、
死後の魂の存続を肯定する陣営と否定する陣営において、
魂の存在を示す証拠についての共通理解が得られておらず、それどころか、
そもそも魂という言葉の定義自体が双方の陣営において異なっているので、
夢枕や臨死体験といった同じ現象から、
死後にも魂は存在する事実と、魂は存在しない事実という
互いに異なる二つの事実が同時に帰結してしまうと考えられるのです。
魂という言葉の定義の変容に基づく唯物論における魂の存在から非存在への変容
もう少し別の角度からこうした問題について考察するならば、
例えば、
世界におけるすべての存在は物体や物質、物理的エネルギーなどの物質的存在によって成り立っているとする唯物論においては、
通常、魂の存在自体が否定され、したがって、
物質的存在としての肉体の死後における魂の存続も否定されることになります。
しかし、
唯物論の思想の一つであるデモクリトスの原子論においては、
身体の運動を司っているのは魂であるとされますが、
そうした魂は、魂の原子によって構成されていて、
肉体の死後には、そうした魂の原子たちが空中へと解き放たれて、また別な場所において生命を形作る源として存続し続けると考えられることになります。
つまり、
デモクリトスのように魂を物質的な原子の一種として定義すれば、
原子論のような唯物論においてすら、肉体の死後にも魂が存続することが事実として認められることになるということです。
通常の唯物論の場合でも、デモクリトスの原子論の場合でも、
肉体としての死を迎えると、人間全体を構成していた原子は離散してバラバラになり、そのすべてが土や空気中へと還っていくことになるという物理現象自体は変わらないわけですが、
そうした物理現象がもたらす意味、すなわち、
事実の捉え方が変わっていくと考えられるということであり、
このように、
同じ唯物論という前提に立ってすら、
魂という言葉の定義自体が変容してしまえば、それに伴って、
肉体の死後にも魂が存続するという事実は、魂は存続しないという全く正反対の別の事実へと変容していくことが可能になると考えられるのです。
虚構としての言語の上に成り立つ世界におけるあらゆる事実
さらに極端な事を言うならば、
冒頭に述べた、太陽が東から昇り西へと沈むという事実を変えることができるのか?
という問題についても、
例えば、
「東」という言葉の定義を「西」という言葉の定義と入れ替えてしまえば、
太陽が実際に動いていく物理現象のあり方はそっくりそのままで、
太陽が西から昇り東へと沈むという太陽の運行の新しい事実を成立させることができると考えられることにもなります。
もちろん、議論がここまで極端になってしまうと、
それは単なる空虚な言葉遊びや詭弁に等しいような論法ということになってしまうのですが、
逆に言えば、
そもそも人間にとっての世界は、
恣意的に定義を変えてしまうことが可能であるようなある種の虚構とも言える言語に基づいて組み立てられていて、
そうした虚構としての言語に基づいて、
世界におけるあらゆる事実が成立していると考えられることにもなります。
つまり、
人間にとっての世界は、人間自身が定義を与える言葉を前提として成り立っていて、
人間は言語やそれを用いる自らの精神を離れて世界自体を把握することはできない以上、
美徳や道徳といった社会におけるあらゆる価値はもちろん、
人間の生き死にや太陽の運行といった世界におけるあらゆる事実でさえも、
根源的には、人間精神とその作用である言葉の力によって形づくられていると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
世界における事実ですら、
それは人間精神がもたらす言葉の定義を前提として存在していて、
そうした言葉の定義を変容させていくことによって、世界における事実もいかようにも変容させていくことが可能と考えられるのであり、
人間精神と、それが紡ぎ出す言葉こそが
社会におけるあらゆる価値と世界におけるあらゆる事実を生み出す根源的な力となっていると考えられることになります。
そして、このように、
「人間は万物の尺度である」という言葉は、
社会における価値観の相対主義に始まり、さらに、
世界全体におけるあらゆる事実、あらゆる存在に対する相対主義の思想へと広がる可能性を持った広い解釈の幅と奥深い含蓄を持つ言葉であり、
人間社会と人間精神、そして言葉自体に対するプロタゴラスの深い洞察を示す箴言として捉えることができると考えられるのです。
・・・
このシリーズの前回記事:価値観の存在と非存在の根源的基準としての人間、「人間は万物の尺度である」プロタゴラスの箴言①
このシリーズの次回記事:
「弱論を強弁する」常識を覆す言論の力とプロタゴラスの相対主義
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