価値観の存在と非存在の根源的基準としての人間、「人間は万物の尺度である」プロタゴラスの箴言①
紀元前5世紀後半の古代ギリシアで活躍したソフィストの一人である
プロタゴラス(Protagoras、紀元前490年頃~紀元前420年頃)は、
「人間は万物の尺度である」であるという
人間中心主義、価値観や事実についての相対主義の思想を唱えましたが、
その言葉は、より正確には以下のように続きます。
人間はすべての物事の尺度である。
あるものについては、あることの。
ないものについては、ないことの。
つまり、
「人間は万物の尺度である」であるというプロタゴラスの言葉における
万物の尺度としての人間は、
AさんとBさんでは、Aさんの方がより美しいとか、
A候補とB候補では、B候補の方がより人格的に優れているといった
価値の度合いを測る物差しとして機能しているだけではなく、
そういった美や道徳といった価値そのものの存在を生み出す
あらゆる存在の根源的基準として機能していると考えられることになるのです。
あらゆる価値観の存在と非存在の根源的基準としての人間
美という価値観については、
例えば、
平安時代と現代では、美人とされる人物の顔や姿がほとんど互いに共通点がないほど全く別々の価値基準になってしまいますし、
道徳や法律についても、
例えば、
20世紀初頭の禁酒法時代のアメリカでは、
現代では皆が当たり前のように飲んで楽しんでいるビールやワインなどのアルコール飲料が法律に違反する不道徳な飲食物として禁止されていました。
そして、その一方で、
現代の日本においては危険薬物として禁止されている大麻などの薬物も、
医療用大麻などの形でヨーロッパを中心に合法化されている動きもあるので、
将来的には、現代では禁止されている大麻が合法となり、
むしろ、現代では多くの人々が嗜好しているアルコールやタバコなどの方が法律によって禁止されるような時代が来ないとも限らないと考えられることになります。
このように、
美や道徳といった社会におけるあらゆる価値基準は、
時代や地域によって全く異なるものが採用され、
それぞれの時代において、古い価値観の消滅と新たな価値観の生成がなされていくことになるのです。
そして、
大多数の人がある特定の姿形を美しいと主張するようになり、
社会における合意が形成されるようになれば、それが新たな美とされ、
議会などの議論の場で、法案についての弁論を行い、
言論の力によって、他の議員たちや国民全体を説得することができれば、
それが新たな法律として定められ、新たな法と道徳の秩序が形成されるというように、
あらゆる価値基準は、人間自身の力によって、
その存在自体が新たに作り出されていくことになります。
つまり、
美の価値観について言えば、
平安時代にあった美人の価値観は現在では消滅して非存在となる代わりに、
現代では、新たな形の美の価値観が存在するようになり、
道徳や法律の価値観についても、
禁酒法時代のアルコールを違法で不道徳とする価値観は消滅して非存在となり、
現代では、アルコールは合法で適度に嗜むのは道徳的にも全く問題ないとする新たな価値観が存在しているというように、
そうした価値観の存在と非存在を司る根源的基準は、
人間自身と、それが生み出す言論の力自体にあると考えられることになるのです。
以上のように、
プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉は、
一つの解釈としては、
善や道徳といったあらゆる価値を司る根源的基準となっているのは
人間自身であって、
あらゆる価値基準は、その存在と非存在自体が
人間自身の言論の力の用い方と社会における合意形成によって左右される
相対的なものに過ぎないということを示していると捉えられることになります。
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しかし、その一方で、
プロタゴラス自身の言葉において、
人間は「あらゆる物事」についての尺度であるとされていることをより重視すると、
この言葉は、人間はあらゆる価値基準の尺度、根源的基準とされているだけではなく、
世界におけるすべての物事、すべての事実の根源的基準となっていると解釈することもできることになります。
このように、
人間が、社会におけるあらゆる価値についてだけではなく、
世界におけるすべての事実の根源的基準でもあるということは、
一体どのようなことを意味しているのか?ということについては、
また次回、詳しく考えてみたいと思います。
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このシリーズの前回記事:プロタゴラスの思想の概要
このシリーズの次回記事:世界は人間精神と言葉の力によって成り立っている?「人間は万物の尺度である」プロタゴラスの箴言②
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