クセルクセス1世の第三回ギリシア遠征の陸軍と海軍のルートとアトス岬の運河の掘削とヘレスポントス海峡の巨大な船橋
前回書いたように、ペルシア戦争の第二回ギリシア遠征におけるマラトンの戦いにおける勝利のしばらく後にアテナイの指導者となったテミストクレスは、
アテナイの外港にあたる港湾都市であったピレウスの軍港建設や、ラウレイオン銀山を資金源とした大規模な軍艦建造計画を成し遂げていくことによって、ペルシア海軍を迎え撃つ準備を進めていくことになります。
そしてその頃、ペルシア本国においては、ダレイオス1世の後を継いで新たにアケメネス朝ペルシアの王となったクセルクセス1世が第三回ギリシア遠征へと向けた大規模な軍備を整えたうえで、
アテナイとスパルタを中心とするペルシアの支配に抗うギリシア諸国を今度こそ完膚なきまでにたたきつぶすために大軍を率いてペルシア本国を出立することになるのです。
アトス岬の運河の掘削とヘレスポントス海峡の巨大な船橋
こうしたペルシア戦争における第三回のギリシア遠征においては、ペルシア軍の側も三度目の遠征ということもあり、今度こそ失敗することがないように徹底的な準備を積み重ねていくことになり、
そうしたクセルクセス1世によって進められたギリシア遠征の計画においては、ペルシア本国からギリシア本土へと至る大地の地形までもが造り変えられていくことになります。
かつて、第一回のギリシア遠征において、急激な暴風に見舞われることによって艦隊の大部分が大破してしまった苦い経験を再び繰り返すことがないように、
暴風が吹いたマケドニアの南東部のアトス岬のつけ根に位置する地峡部分には、三年もの歳月を費やして船が通り抜けることができる運河が掘削されていくことになり、
アジアとヨーロッパを分かつ現在ではダーダネルス海峡と呼ばれているヘレスポントス海峡には、30万にもおよぶとも言われたペルシア軍の兵士たちがスムーズに海峡を越えていくことができるように700隻にものぼる船を並べて築かれた巨大な船橋が架けられることになります。
そして、
こうしたギリシア本土まで続くかつてない規模の行軍においても万全を期して臨めるだけの完璧な準備が整ったことを確信したクセルクセス1世は、自らが総大将となってペルシアの大軍を率いたうえで、
かつて、ペルシア戦争の大本の火種となったイオニアの反乱の時代にアテナイ人たちによって破壊されたペルシアの西方の都であったサルディスを出立することになるのです。
ギリシア都市国家のコリントの町への終結とテーバイやロクリスの離反
そして、
ペルシアの大王であるクセルクセス1世自らが総大将となって、30万にもおよぶ陸軍と、1200隻の三段櫂船から成る大艦隊を引き連れてサルディスの都を出立した頃、
ギリシア本国においては、ペルシアの大軍を本土で迎え撃つために、アテナイやスパルタをはじめとする30にものぼるギリシアの都市国家の代表者たちが、
ギリシア本土とペロポネソス半島とを結ぶ要衝にして、アテナイとスパルタの中間地点に位置する都市でもあったコリントへと集結することになります。
しかし、その一方で、
クセルクセス1世がサルディスを出立する前に、アテナイとスパルタを除くギリシアの各地に放っていたペルシアの使者によって、帝国の支配のもとに服従することを要求されていたギリシアの都市国家のなかには、
テッサリアやロクリスやテーバイなどといったギリシア各地においてペルシア側への恭順の意を示す離反者たちも現れていくことになるのです。
アテナイとスパルタにだけ降伏を勧告する使者を送らなかった理由
ちなみに、この時、
ペルシアの大王であるクセルクセス1世によってペルシアの本国から放たれた使者たちがアテナイとスパルタだけは訪れることがなかったことには、いくつかの理由があったと考えられ、そのうちの一つとしては、
かつて第二回のギリシア遠征の前に、アテナイとスパルタの両国は、帝国支配のもとに服することを勧告しに来たペルシアの使者を処刑することによってペルシアの王への返答としていて、
今回の第三回のギリシア遠征において改めて使者を派遣して降伏を促しても拒絶されることが目に見えていたため、あえて無駄なことはしなかったということが大きな理由として挙げられることになります。
また、もう一つの理由としては、
これまでに誰もなし得たことがなかったほどの大規模な遠征軍を編成したうえに、アジアからヨーロッパへと至る進軍路の大地の地形を造り変えてまでこの遠征のための万全の準備を整えていたクセルクセス大王は、
自らの勝利を確信していたため、ギリシア人たちがこうしたペルシア軍の威容を見て怖気づき、戦う前にギリシア全土のすべての都市が降伏して戦う相手がいなくなってしまうことがないようにするために、
アテナイとスパルタというペルシアの宿敵にあたる二つの都市国家を、自らの遠征における輝かしい勝利を飾る戦利品としてとっておくといった意図があったとも考えられることになるのです。
クセルクセス1世の第三回ギリシア遠征における陸軍と海軍のルート
そして、こうして、
紀元前480年の春に、サルディスを出立したクセルクセス1世が率いるペルシアの大軍は、その後、陸路と海路へと分かれて大規模な進軍を開始していくことになるのですが、
こうしたペルシア帝国の領土の各地から集められてギリシア遠征へと参加したペルシア軍の兵士たちには、メソポタミアやインド、アラビアやエチオピアといった人種も服装も大きく異なる様々な人々が含まれていたと考えられることになります。
そして、
陸路においては、こうした帝国全土から集められた30万におよぶとも言われる膨大な数におよぶペルシア軍の兵士たちは、巨大な船橋が架けられたヘレスポントス海峡を越えて、トラキアからマケドニアそしてテッサリアへと進軍を続けていくことになり、
それに対して、
海路においては、1200隻を超える三段櫂船から成るペルシア海軍の大艦隊がエーゲ海を北上したのちヨーロッパ大陸の海岸沿いのルートを進軍していったのち、アトス岬のつけ根の部分に掘削された運河を通って、さらに、テッサリア沖のエーゲ海上を南下していくことになります。
そして、その後、
こうした陸路と海路の二つのルートに分かれて進軍を続けていったペルシアの大軍は、ついに、
陸路においては、テッサリアとギリシア中部を隔てる隘路にあたるテルモピュライを守るスパルタの重装歩兵と、
海路においては、ギリシア本土に隣接するエウボイア島の北端部に位置するアルテミシオン沖に布陣するアテナイの海軍と衝突することによって、
ついに、ペルシア戦争における最後にして最大とも言える一連の戦いがその幕開けを迎えることになるのです。