エリ・エリ・レマ・サバクタニというイエスの最期の言葉の本当の意味とは?旧約聖書の預言の言葉と成就と神の栄光の確信
新約聖書の最初の書であるマタイによる福音書においては、イエスが十字架の死の際して残したとされる最期の言葉として、
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)(新約聖書「マタイによる福音書」27章46節)
という言葉を叫んだということが書き記されています。
そして、聖書における一連の記述をさらにひも解いていくと、こうしたイエスが十字架の死の際して叫んだとされている最期の言葉とまったく同じ言葉が、
イエスが生まれる数百年も前の時代に書かれたと考えられている旧約聖書の詩篇の一節における預言の言葉のうちにも見いだされていくことになります。
新約聖書に記されたイエスの十字架の死についての記述と預言の成就を知らせる二つの言葉
まず、新約聖書の最初の書であるマタイの福音書においては、
イエスが十字架へとかけられてから死を迎えるまでに起こった一連の出来事は、具体的には以下のような形で記述されていくことになります。
・・・
ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
(新約聖書「マタイによる福音書」27章33節~46節)
・・・
そして、
その後の新約聖書の記述においては、十字架のうえで死を迎えようとするイエスのこうした苦しみと悩みに満ちた魂の叫びの言葉が放たれたのち、
四つの福音書のうちの最後の書であるヨハネによる福音書においては、
「渇く」(新約聖書「ヨハネによる福音書」19章28節)
そして、
「成し遂げられた」(新約聖書「ヨハネによる福音書」19章30節)
という二つの短い言葉を発することによって、イエスは死を迎えることになったと記されているのです。
旧約聖書の詩篇22篇のダビデの賛歌に記された預言の言葉とイエスの十字架の死に際して起こった一連の出来事との対応関係
そして、それに対して、
こうしたイエスが十字架の死に際して最後に叫んだとされている「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉と、
まったく同じ言葉が書かれている聖書の箇所としては、旧約聖書の詩篇22篇において記されているダビデの賛歌の存在が挙げられることになります。
古代イスラエルの預言者にして聖なる王でもあったダビデは、旧約聖書において神への賛美の詩と神聖なる祈り言葉が記されている詩篇と呼ばれる一連の著作群の代表的な作者としても位置づけられているのですが、
そうしたダビデの賛歌のうちの一つである詩篇22篇において記されている神へと捧げられた美しい賛歌と深淵なる預言の言葉は、以下で記した言葉よってはじまっていくことになります。
・・・
わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」
わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。
口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。
主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。
わたしの魂を剣から救い出し、わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い、わたしに答えてください。
わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。
それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。
(旧約聖書「詩篇」22篇)
・・・
そして、こうした旧約聖書の詩篇22篇における預言者ダビデの言葉と、前述したマタイによる福音書にいて記されていたイエスの十字架の死に際して起こった一連の出来事とを互いに比べて見ていくと、
旧約聖書の詩篇22篇における預言の言葉においては、
最初に、「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。」という苦悩と絶望に満ちた言葉によってはじまり、
その次に、「嘲笑い、唇を突き出し、頭を振り」ながら、かの者に対して「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」という言葉を投げかける人々が現れ、
最後に、その者の「着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」人々の姿が語られていくことになるのに対して、
新約聖書のマタイによる福音書におけるイエスの十字架の死の記述においては、
最初に、イエスを十字架につけながら「くじを引いてその服を分け合う」人々の姿が登場したうえ、
その次に、「頭を振りながら」イエスのことをののしって「他人は救ったのに、自分は救えない」「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」という言葉を投げつける人々が現れ、
最後に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉が語られることによって、イエスの十字架の死が成し遂げられていくことになります。
つまり、
こうした新約聖書のマタイによる福音書におけるイエスの十字架の死についての記述においては、かつて旧約聖書の詩篇22篇のダビデの賛歌において書き記されていたことが、
はじめに書かれたことが後に起こり、後に書かれたことがはじめに起こっていくような形で、そうした旧約聖書における預言の言葉が逆巻きになった順番で成就していくことになっていったと考えられることになるのです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というイエスの最期の言葉の本当の意味
そして、そういった意味では、
イエスが十字架の死に際して叫んだとされている「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉の本当の意味とは、
こうしたイエスの十字架の死に際して起こることなったすべての出来事が、神の永遠なる計画の内において予め定められた出来事であったことを示す預言の言葉が語られている旧約聖書の詩篇22篇における最後の言葉が、
「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせる」という
未来における善なる人々の魂の勝利と神の栄光とを告げ知らせる歓喜と希望に満ちた言葉によって結ばれているように、
それは、自分のことを見るすべての人々が頭を振って嘲笑い、神にさえ見放されたように見える姿で十字架の死を迎えるイエスの深い苦悩を示す言葉であると同時に、
イエスがその十字架の死において、そうした旧約聖書における預言の言葉の成就と、未来へと永劫に続いていく神の栄光を確信しながら、
自らの心の内に広がる果てしない歓喜と希望に満ちた情景のなかで、その神聖なる死の瞬間を迎えることになったことを聖書を読むすべて人々に告げ知らせる言葉でもあったと考えられることになるのです。
・・・
次回記事:新約聖書のイエスの十字架の死と旧約聖書の預言の言葉を結ぶ永遠の円環と過去と現在と未来の人々にとっての十字架の死の意味
前回記事:イエスが最期の時に残した七つの言葉とは?②時系列順に並べたイエスの最後の言葉とイエスの十字架の死が持つ多面的な意味
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