イエスが最期の時に残した七つの言葉とは?②時系列順に並べたイエスの最後の言葉とイエスの十字架の死が持つ多面的な意味
前回の記事で書いたように、新約聖書の四つの福音書における記述においては、イエスが十字架の死に際して残した最後の言葉としては、
マタイによる福音書とマルコによる福音書における
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉と、
ルカによる福音書における
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という三つの言葉、そして、
ヨハネによる福音書における
「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。ごらんなさい。これはあなたの母です。」
「渇く。」
「成し遂げられた。」という三つの言葉として示されている
全部で七つの言葉の存在が挙げられることになるのですが、
それでは、こうしたイエスが最期の時に際して残したとされている七つの言葉は、実際のイエスの十字架の死の場面においては、具体的にどのような順番で発せられた言葉であったと考えられることになるのでしょうか?
イエスを十字架につける民衆と自らの罪を悔い改める罪人へと向けられた赦しと救いの言葉
そうすると、まず、
イエスが十字架へとつけられて死を迎えていくことになる一連の場面において、イエスが最初に発した言葉は、自分のことを十字架へとつけて処刑しようとすることに手を貸し、その行いを止めようともせずにただ見ている民衆や一般の人々に向けて発せられた
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(新約聖書「ルカによる福音書」23章34節)
という言葉であると考えられることになります。
そして、イエスは、この言葉によって、
無知と浅慮のゆえに、自分たちの救い主を自らの手によって殺すという大いなる罪に手を染めて、自分のことを殺そうとしている民衆たちに対して、
その罪深き行いが成し遂げられる前に、すでに赦しの言葉を与えていると解釈していくことができると考えられることになるのですが、
その後、イエスは、
自分の隣で十字架へとつけられ、自分の罪を悔い改めて、イエスに対して赦しを請い願う罪びとに対して、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(新約聖書「ルカによる福音書」23章43節)
という救いの言葉を与えることによって、この悔い改めた罪人の魂は、こののち、ほどなくして死を迎えることになるイエス・キリストの聖なる魂ともに、天上の世界の最も高いところへと引き上げられていくことが定められることになったと考えられることになるのです。
人間としてのイエスの自分の母マリアに対する愛と聖母マリアの誕生
そして、その次に、
十字架のうえで死の時が迫るのを待つイエスのもとへと歩み寄ろうとするイエスの母マリアと、イエスの弟子たちに語られた言葉として、
イエスは母マリアに対して、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と呼びかけたうえで、それに続いて、自分のことを信じる弟子たちに対して「見なさい。あなたの母です。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」19章26~27節)
という言葉をかけていくことになります。
そして、この言葉は、直接的な意味においては、
自分が死んだ後に残されてしまう母のことを思って、母マリアのことを自分の母のように思って支えてくれるようにと弟子たちに対して頼んでいるという人間としてのイエスの自分の肉親である母マリアへの愛情が示されていると解釈していくことができると考えられることになるのですが、
その一方で、この言葉からは、
イエスが十字架の死を引き受けることですべての人々の罪を背負う贖罪の死をとげることによって、イエスの生みの母であるマリアについても、実際にそうしたすべての人々の母としても位置づけられるような特別な存在へと高められていくことになったといった意味を読み解いていくこともできると考えられることになります。
つまり、そういった意味では、
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」というこの言葉がイエスの口から発せられた瞬間に、
イエスの母マリアは、それと同時に、イエスを救い主として信じるすべての人々にとっての母、すなわち、のちに聖母マリアとして信仰の対象ともなる特別な存在へと高められていくことになっていったとも解釈していくことができると考えられることになるのです。
イエスの十字架の死による旧約聖書の預言の言葉の成就と神へと向けられた全幅の信頼と信仰の告白
そして、その後、
十字架のうえでのイエスの死がいよいよ迫っていくことになる場面で語られたと考えられる残りの四つの言葉については、
詳しくは次回の記事において考察していくように、旧約聖書の詩篇における預言の言葉とも関係の深い、より深淵なる意味を持った言葉として語られていると考えられることになるのですが、
そうした神聖で神秘的ともいえるイエスの死の瞬間が迫っていくなかで、イエスは、
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)(新約聖書「マタイによる福音書」27章46節)
というイエスが十字架の死に際して叫ばれたとされている最も有名な言葉を発したのち、そうした神聖なる死の瞬間へと時が進んでいくなか、
その次に、イエスは、
「渇く」(新約聖書「ヨハネによる福音書」19章28節)
という一言を発することになります。
そして、
この言葉を文字通り肉体における喉の渇きとして解釈した処刑の場に立っていた一人の兵士が、イエスの言葉に突き動かされて、葦の枝にくくりつけた海綿にブドウ酒につけてイエスに飲ませようとすることになるのですが、そのブドウ酒を口に含んだイエスは、そのすぐ後に、
「成し遂げられた」(新約聖書「ヨハネによる福音書」19章30節)
という一言を発して、神の永遠なる計画のうちにおいて予め定められていたすべての出来事が定められた順番の通りに行われたことによって旧約聖書における預言の言葉がすべて成就したことを語り終え、その後、
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(新約聖書「ルカによる福音書」23章46節)
という神へと向けられた言葉を語ることによって、自らの人間としての生涯を終えることになったと考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
こうした新約聖書の四つの福音書における一連の記述においては、イエスが十字架の死に際して最期の時に残したとされている七つの言葉は、具体的には以下のような時系列の順番において発せられたと考えられることになります。
(自分のことを十字架につけようとする民衆たちのことを見ながら)
①「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(隣で十字架につけられながら自らの罪を悔い改める罪人に対して)
②「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
(イエスのもとに寄り添う母マリアと弟子たちに向けて)
③「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」
(十字架のうえでの神聖なる死の瞬間が迫るなか)
④「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)
⑤「渇く」
⑥「成し遂げられた」
⑦「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
そして、
こうしたイエスが十字架の死に際して最後に残したとされる七つの言葉のうちには、
一般の人々や自らの罪を悔い改めようとする罪びとたちへと向けられた赦しの言葉と救いの言葉、人間としてのイエスの母マリアへの愛、
さらには、すべての人々の罪をその身に引き受けることによって浄化する苦痛と苦悩に満ちた贖罪の死と、旧約聖書における預言の言葉の成就、
そして、自らの存在のすべてを神の御手へとゆだねることによって示される神への全幅の信頼と信仰の告白といった様々な意味が込められていると考えられ、
そういった意味では、
以上のような新約聖書の四つの福音書において示されているイエスの十字架の死の場面について書かれた一連の記述においては、
こうしたイエスが最期の時に発したとされる七つの言葉によって、
イエスの十字架の死が持つ多面的な意味が、聖書を読むすべて人々に対して深く解き明かされているとも解釈していくことができると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:エリ・エリ・レマ・サバクタニというイエスの最期の言葉の本当の意味とは?旧約聖書の預言の言葉と成就と神の栄光の確信
前回記事:イエスが最期の時に残した七つの言葉とは?①新約聖書の四つの福音書における新共同訳と口語訳と英訳の三つの記述の比較
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