帰納的推論と演繹的推論における推論の確実性の度合いの違い、帰納的推論が常に蓋然的な認識にとどまり続ける理由とは?
前々回と前回の記事で書いたように、学問における論理的推論のあり方には、大きく分けると、一般的に、
帰納(induction、インダクション)と、演繹(deduction、ディダクション)、そして、仮説形成(abduction、アブダクション)と呼ばれる三つの推論のパターンが存在すると考えられることになります。
そして、こうした三者の推論のあり方の間には具体的にどのような関係が成立しているのか?という問題について詳しく考えていくために、
まずは、今回は、帰納的推論と演繹的推論という二つの推論の形式における推論の確実性の度合いの違いという問題について、なるべく具体的な形で考察を進めていきたいと思います。
帰納的推論と演繹的推論における推論の確実性の度合いの違い
「演繹法と帰納法の具体的な違い」の記事でも書いたように、
演繹的推論においては、数学における定理や数式の証明に代表されるように、前提となる定義や仮定からの必然的な論理展開によって、
一般的な理論や普遍的な法則の側から個別的な概念や具体的な事実が導き出されるのに対して、
帰納的推論においては、実験や観察によって得られた個別的な事例や経験的事実の集積に基づいて、
個別的な事例や具体的な事実の方から一般的な理論や普遍的な法則を見つけ出そうとする推論が進められていくという点に、
両者の推論のあり方の方向性の違いがあると考えられることになります。
そして、こうした両者の推論の形式において、
演繹的推論の場合には、それが前提からの必然的な論理展開によって導かれる推論である以上、そうした前提となる定義や仮定自体に誤りがない限り、
演繹的推論によって導き出された結論や法則は、基本的に、どんな場合においても必ず成り立つ必然的な結論や法則として捉えることができると考えられることになります。
それに対して、
帰納的推論の場合には、それが偶然的な要素を含む経験的事実の集積によって導かれる推論である以上、
帰納的推論によって導き出された結論や法則は、どこまでいっても、これまでの経験ではずっとそうであったのだから、次もたぶんそうであるだろうという蓋然的※な結論や法則にとどまり続けることになると考えられることになります。
※蓋然的(がいぜんてき)とは、ある事柄が必然的であるとは言えないまでも、ある程度の確実性をもって生じることを意味する概念であり、そうした確実性や可能性の度合いが数値化されたものが確率あるいは蓋然率という言葉によって表現されることになります。
帰納的推論が常に蓋然的な認識にとどまり続ける理由とは?
例えば、数学における「6÷3=2」という普遍的な計算式から導かれる演繹的推論においては、
三つに分ける対象物がケーキであろうとアンパンであろうと、分ける相手が子供であろうと大人であろうと、分ける場所が北極であろうと南極であろうと宇宙船の中であろうと、
6個の対象物を3人で等しく分配した場合に得られる一人当たりの対象物の個数は2個であるという結論がどんな場合においても常に必ず成り立つと考えられることになります。
それに対して、
例えば、「太陽は東から昇って西へ沈む」といった経験的事実や観測データの集積から導かれる帰納的推論においては、
今日も明日も明後日も太陽が毎日同じように東から昇って西へと沈んでいくのが観測され、そうした経験的事実と観測データの集積が、一カ月、一年、千年、何十回、何百回、何万回と積み重ねられていくにつれて、
きっと地球上のいかなる場所のいかなる時においても、太陽は毎日同じように東から昇って西へと沈んでいくのだろうという普遍的な法則についての推論がなされると考えられることになります。
しかし、実際には、
北極や南極付近の高緯度の地方においては、真夏の時期に、太陽が夜も地平線近くにとどまっているか、太陽がまったく沈まないことによって、薄明りまたは昼間の状態が数週間から数か月にわたって続く白夜(びゃくや、または、はくや)と呼ばれる現象が起こることがあるように、
上記の「太陽が東から昇って西へ沈む」という帰納的推論のみに基づく法則は、それ自体としては、いついかなる場合でも常に成り立つ普遍的な法則とは言えないと考えられることになるのです。
・・・
以上のように、一般的に、
演繹的推論は、前提となる定義や仮定からの必然的な論理展開によって結論や法則が導き出されることから、それはどんな場合においても必ず成り立つ必然的な推論として捉えることができるのに対して、
帰納的推論は、偶然的な要素を含む経験的事実の集積によって結論や法則が導き出されることから、それはどこまでいってもこれまでの経験ではずっとそうであったのだから、次もたぶんそうであるだろうという蓋然的な推論にとどまる推論のあり方であるという点に、
両者の推論の形式における推論の確実性の度合いの違いがある考えられることになります。
つまり、
帰納的推論においては、どれだけ数多くの実験データや経験的事実を積み重ねても、そうした事実を成り立たせている原因や条件、論理の必然的な道筋自体は、演繹的推論の場合のように明らかにされることがない以上、
それは、どこまでいっても、なぜなのかは分からないが、これまでもずっとそうであったので、これからもずっとそうであり続けるであろうという
演繹的推論における必然的な推論と比べると確実性の程度が劣る蓋然的な認識にとどまる推論の形態として位置づけられることになると考えられることになるのです。
そして、このように考えていくと、
物理学や天文学といった自然科学の学問分野においては、基本的には、今回取り上げた帰納的推論に見られるような実験や観察データといった経験的事実や実証的事実に基づいて、理論や法則が導き出されていく以上、
そうした自然科学における理論や法則のあり方は、どこまでいっても、数学や論理学における演繹的推論には遠く及ばない不確実で蓋然的な理論や法則にとどまり続けることになるのか?という疑問が生じてくることになるのですが、
それについては、こうした蓋然的な推論である帰納的推論を、必然的な推論である演繹的推論へと少しでも近づけ、両者の推論のあり方を互いに結びつけるために、
仮説形成(アブダクション)と呼ばれる第三の推論の形式が求められることなると考えられることになるのです。
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次回記事:帰納と演繹と仮説形成という三つの推論の関係とは?あらゆる学問における普遍的な理論形成の源となる三つの推論の働き
前回記事:仮説形成(アブダクション)と帰納的推論(インダクション)の違いとは?経験的事実の背後にある仮定への遡及としての仮説形成
関連記事:演繹法と帰納法の具体的な違いとは?必然的な論理展開と実証的事実に基づく両者における推論の進め方の違い
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