グノーシス主義の開祖である古代の魔術師シモン・マグスと錬金術師ファウストとの関係とは?
前回書いたように、ドイツにおけるファウスト伝説の直接的な由来となった歴史上の人物の名前としては、ヨハンネス・ファウストとゲオルク・ファウスト、そして、ヨハン・ゲオルク・ファウストという三人の人物の名前が挙げられます。
そして、こうしたドイツにおけるファウスト伝説、そして、それを題材として書かれたゲーテの『ファウスト』の主人公の人物像の思想的背景となった人物としては、
さらにもう一人、シモン・マグスという人物の名が挙げられることになるのです。
グノーシス主義の開祖シモン・マグスのキリスト教への改宗
シモン・マグス(Simon Magus)とは、紀元後1世紀頃の時代のサマリア(現在のパレスチナ地方の中部にあった古代都市)において活躍した魔術師および思想家であり、
キリスト教の異端思想の一つにあたるグノーシス主義の開祖であったともされる人物でもあります。
それでは、近世のドイツにおける伝説的な錬金術師であるファウスト博士と、古代の中東世界において活躍したシモン・マグスと呼ばれる人物との間に具体的にどのような共通点があるのと考えられることになるのか?ということについてですが、
それについては、例えば、
新約聖書の「使徒言行録」において、以下のような形で、このシモンと呼ばれる人物についての言及がなされています。
この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。
人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
(新約聖書「使徒言行録」第8章9節~11節)
そしてその後、魔術師シモンは、
イエス・キリストから直接教えを受けた弟子である十二使徒のうちの一人である使徒フィリポ(ピリポ)の教えを受けることによってキリスト教へと改宗し、以降は、キリスト教の布教と教義の探究のために自らの人生を捧げていくことになるのです。
古代の魔術師シモンと錬金術師ファウストとの共通点
しかし、
キリスト教徒となった後も、シモンについては、一般的な善良な信徒とは異なり、野心的で神をも畏れぬ不敵な態度を見せる姿が伝えられていて、
上記の「使徒言行録」のすぐ後の節では、そうした神をも畏れぬ不敵な態度を見せるシモンを、使徒ペトロ(ペテロ)が厳しく断罪する場面が描かれています。
ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで霊が与えられるのを見、金を持って来て言った。
「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
するとペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。…お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしにはわかっている。
(新約聖書「使徒言行録」第8章17節~23節)
つまり、
新約聖書のこの箇所においては、金や権力といった世俗的な力によって、聖なる神の力を買い取り、我が物にしようとする行為は、神を冒涜する行為であり、
そのような行為を行おうとする者は、自分が行使しようとする力によって自らの魂を蝕まれ、その悪しき力と共に魂が滅ぼされることになるという戒めの言葉が語られていると考えられることになります。
そして、
こうした金銭を用いた契約によって神の力の一部を我が物としようとする魔術師シモンの姿は、
ドイツのファウスト伝説において、悪魔との契約を結ぶことによって莫大な力を得るものの、それによって結果として自らの身を滅ぼし、魂が地獄へと落とされることになるファウスト博士の姿と共通するところがあると考えられることになるのです。
また、こうした新約聖書における正式な記述の他にも、例えば、新約聖書の外伝とされる『ペトロ行伝』においては、
魔術師シモンが自らが持つ偉大な魔術の力を駆使することによって空中を飛行して使徒ペトロへと襲いかかるものの、
彼が持つ悪しき力はぺトロを守る聖なる神の力によって退けられ、力を失ったシモンは、そのまま地上へと墜落して死んでしまったとする逸話も伝えられています。
そして、前回書いたように、
近世のドイツにおけるファウスト伝説の直接的な由来となった人物の一人とされるヨハンネス・ファウスト(ヨハネス・ファウスト)についても、
彼は、錬金術の奥義を手にするための流浪の旅の末に、ヴェネツィアで試みた空中飛行の実験に失敗して墜落死したとする逸話が伝えられていますが、
こうした点においても、魔術師シモンと錬金術師ファウストとの間には、類似点が見られると考えられることになります。
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以上のように、
近世ドイツのファウスト伝説における錬金術師ファウストと、古代中東世界の魔術師にして思想家でもあったシモン・マグスとの間には、その人物像に様々な共通点があると考えられることになります。
そして、詳しくはまた次回書いていくように、
彼が開祖であったとされているグノーシス主義と呼ばれる宗教思想ないし哲学思想自体のうちにも、ドイツのファウスト伝説あるいはゲーテの『ファウスト』へと通じるある種の思想的な共通点があると考えられることになるのです。
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次回記事:グノーシス主義における二世界論とゲーテ『ファウスト』における魂の救済
前回記事:ドイツのファウスト伝説の由来となった三人の歴史上の人物とは?ヨハン・ゲオルク・ファウストとマルティン・ルターの確執
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