グノーシス主義における二世界論とゲーテ『ファウスト』における魂の救済
前回書いたように、近世ドイツのファウスト伝説における錬金術師ファウストの人物像と、グノーシス主義の開祖であったとされるシモン・マグスの間には、人物像やエピソードにおいて様々な共通点を見いだすことができます。
そして、
こうしたファウストとシモン・マグスとの間の関連性は、このシモン・マグスという人物が伝説的な開祖であるとされるグノーシス主義という宗教思想ないし哲学思想自体のうちにも見いだされていくことになります。
魂と宇宙についての神秘的な知識を意味するグノーシス
グノーシス主義(gnosticism)とは、紀元後1世紀頃の時代に、地中海の東側に位置する中東世界において発生し、
初期キリスト教や、中期プラトニズムの影響を受けながら発展していった宗教運動なしい思想運動であり、
その思想的な特徴としては、すべての存在はその根源において、物質的で肉体的な存在と神的で精神的な本質とに分かれているとする極端な霊肉二元論と、
そうした真理についての明確な知識を得ることによって魂が救われるとする主知主義の思想が挙げられることになります。
また、
グノーシス主義におけるグノーシス(gnosis)という言葉は、もともと古代ギリシア語で知識や認識のことを意味する言葉であり、
人間が自らの心の内に宿る自己の神的な本質を自覚することによって得られる神秘的な知識のことを意味する概念であると考えられることになります。
そして、グノーシス主義においては、
そうした自分自身の魂についての神秘的な知識であるグノーシスを得ることこそが、人間の人生における最大の目的であるとされていたと考えられることになるのです。
グノーシス主義における二世界論と『ファウスト』における魂の救済
以上のように、グノーシス主義においては、
人間も宇宙も、その存在の根源においては、物質的で肉体的な存在と神的で精神的な本質という二つの実体に分裂していると捉えられ、
神的で精神的な存在である魂やイデアが善なる存在であるとされるのに対して、その対極にある存在である肉体や物質的存在のすべては根本的には悪しき存在として捉えられることになります。
つまり、グノーシス主義においては、
人間において身体と精神、あるいは、肉体と魂といった区別がなされるように、
宇宙も、その根源においては、物質的存在から成る悪しき宇宙と、神的で精神的な存在から成る善き宇宙という二つの世界に分裂しているという
善と悪、そして、精神と物質という二世界論において、宇宙全体の構造が捉えられていると考えられることになるのです。
そして、
こうした二世界論と人間の精神の神的な本性に基づいて魂の救済がなされるという構図は、18世紀のドイツの詩人でもあるゲーテの長編戯曲『ファウスト』の内にも、それと同様の構図が見いだされることになります。
ゲーテの『ファウスト』の終幕の場面において、主人公であるファウストは、悪魔メフィストフェレスに自らの魂を売り渡すという悪魔との魂の契約から逃れて、天上の世界へと引き上げられていくことになるのですが、
詳しくは「地上の世界と天上の世界におけるファウストの魂の二重の行方」の記事で書いたように、こうしたファウストの魂の救済については、
彼の魂は、悪の力が及ぶ地上の世界においては契約通りに悪魔メフィストフェレスの手の内へと引き渡されることになったのですが、
その魂が完全に肉体を離れて、天上の世界に属する存在へと移行した瞬間、悪の力による支配から解放され、魂の救済がなされることになったと解釈されることになります。
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以上のように、
グノーシス主義における精神と肉体の分裂に基づく二世界論と、人間の魂が自らの肉体を離れて自己の神的な本質を自覚することによって魂の救済が得られるとする思想は、
ゲーテの『ファウスト』の終幕の場面における主人公ファウストの魂の救済の構図にも通底する思想であると考えられることになります。
そして、
グノーシス主義の伝説的な開祖であるシモン・マグスとファウストには、単に、ドイツのファウスト伝説における錬金術師ファウストの間に人物像やエピソードの共通点が見られるというだけではなく、
ゲーテによって書かれた『ファウスト』の物語自体の内にも、その思想的背景として、
グノーシス主義におけるような宇宙と人間の魂に関する霊と肉、精神と肉体の二世界論の思想と、人間の精神の神的な本性に基づいて魂の救済がなされるという思想があったと考えられることになるのです。
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次回記事:歴史上の伝承におけるファウスト博士とゲーテにおけるファウストの人物像の違いとは?
前回記事:古代の魔術師にしてグノーシスの開祖であるシモン・マグスと錬金術師ファウストとの関係とは?
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