神の知へと続く無限の螺旋階段を上る永遠に終わることなき知の探究の道、ソクラテスの無知の知とは何か?⑧
前回書いたように、
ソクラテスの無知の知における無知とは、善美なるものの普遍的真理について神のようには知らないという神の知に対する無知であり、
人間の知性が限られた不完全なものである以上、そうした善美なるものについての知の探究は、どこまで進めていっても神の知のような完全な普遍的真理へは到達することができない不十分なものであると考えられることになります。
それでは、
そうした常に不完全な知にとどまり続け、永遠に普遍的真理へと到達することができない知の探究にはいったいどのような意味があると考えられることになるのでしょうか?
普遍的真理への永遠に終わることなき知の探究の道
詳しくは、前回の議論や「善く生きるとは何か?⑤哲学における際限なき知の探究の営み」でも考えたように、
人間の知が神の知へと到達しきることが不可能である以上、その探究は永遠に続く終わることなき知の探求の道であると考えられることになります。
しかし、そもそも、
ソクラテスの無知の知の探究においては、はじめから「ソクラテスよりも知恵のある者は誰もいない」というデルポイの神託の真意を確かめるために、
その神託が正しいことを実際に一人一人の知者のもとを訪ねて回って、彼らの知のあり方の吟味と論駁を試みていくことになっていたので、
そうしたソクラテスの探究計画自体が、原理的に終わりなき対話と論駁の旅となっていたとも考えられることになります。
なぜならば、
ソクラテスが新たに出会った知者とされる対話相手の知を論駁して、彼が善美なるものの普遍的真理については無知であるということを明かにしても、
すぐにその次に、我こそは真理を得たる知者である、自分こそは今までに比類なき賢者であると称する人物が次々に現れることになるので、
彼らのすべての知のあり方を論駁し尽くすことは原理的に不可能であると考えられるからです。
つまり、
目の前の知者との対話によって彼の知のあり方を論駁することができたとしても、その次に現れる知者こそが本当に善美なるものについての完全なる知を持った知者であるかもしれないという可能性は永遠に消え去ることがないということになる以上、
どこまで新たな知者との対話と論駁を重ねていっても、その知の吟味と論駁には終わりがないということです。
このように、
ソクラテスの無知の知に基づく知の探究においては、人間の知性の限界と、他者との対話を通じて真理を明らかにしようとするソクラテスの探究計画の原理的な問題という二重の制約から、
人間の知のあり方についての探究は常に不完全なままにとどまり、普遍的真理自体にいつまでも到達することができないという意味では無知であり続けることになります。
しかし、このことは、逆に言うと、
そうした知の吟味の前と後では、新たな対話相手との新たな角度からの知の吟味と論駁が行われた分だけ、ソクラテスが求める人間の知のあり方への理解は深まり、その分だけ、神の知である普遍的真理へとわずかながら近づいていると考えられることにもなります。
つまり、
ソクラテスの無知の知に基づく知の探究がどこまで進んで行っても神の知へと到達しない不完全な知のあり方にとどまり続けるということは、
同時に、
それは、どこまでも際限なく神の知へと近づいていくことができる永遠の知の探究の道でもあるということを意味してもいるということです。
神の知へとつながる無限に続く螺旋階段
そして、そういう意味では、こうした知の探究の営みは、
その探究が進んだ分だけ、普遍的真理へと近づいていくことができる以上、それは、神の知へとつながる階段を一歩一歩上へとのぼっていくような着実な歩みではあると考えられるのですが、
その一方で、
毎回、同じような議論の構造によって進められ、表面上は出発点へと戻って来てしまう知の吟味と論駁の営みは、一見すると、単なる堂々巡りの議論にも見えるので、
それは、グルグルと何度も元にいた地点へと戻ってきてしまうような円運動の営みでもあると捉えられることになります。
つまり、
それは、神と被造物(神によって造られたもの、すなわち、世界に存在するあらゆる生物と事物)との間に架けられたどこまでも果てしなく続く一つの螺旋階段(らせんかいだん)をいつまでもグルグルと回りながら上り続けていくような知の探究のあり方をしているということです。
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以上のように、
ソクラテスの無知の知に基づく人間の知のあり方についての探究の道、すなわち、ソクラテスおける哲学的探究の営みは、
神と被造物との間に架けられた無限に続く螺旋階段を一歩一歩上へのぼっていこうとする知の探究の営みであると考えられることになります。
そして、
無知の知が、いかなる努力を積み重ねようと人間の知が神の知である普遍的真理へと到達することができないということを示しているからといって、
それは、そうした知の探究に対する人間の努力が無駄であるということを言っているわけでは決してなく、
そうしたソクラテスの無知の知に基づく知の探究の道は、表面上は堂々巡りに見える議論を積み重ねていきながら、らせんを描くようにして神の知へと向かって永遠に昇華し続けていく無限なる道のりであると捉えられることになるのです。
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初回記事:ソクラテスの無知の知とは何か?①デルポイの神託の真意を確かめる知の探究への道
前回記事:神と被造物の間に位置する人間の知のあり方、ソクラテスの無知の知とは何か?⑦
関連記事:善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道
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