神と被造物の間に位置する人間の知のあり方、ソクラテスの無知の知とは何か?⑦
前回書いたように、
ソクラテスの無知の知と呼ばれる人間の知のあり方の探究においては、
人間が善美なるものについての包括的で普遍的な知について無知であるということが明らかにされていくことになります。
そして、
ソクラテスにおいては、そうした善美なるものについての無知を深く自覚したうえで、さらに、普遍的真理を追い求めていく知の探究が進められていくことになるのですが、
そうした善美なるものについての普遍的真理を追い求める知の探究の営みは、人間の知性においては具体的にどのような形で進められていくことになるのでしょうか?
白紙の無知と神の知に対する無知の違い
前回書いたように、善美なるものについての知は、基本的には、それについての普遍的な定義を導くための知の論駁と推論という演繹的な探究によってもたらされると考えられるのですが、
人間の知性が神の知性のような欠けるところのない完全なものではなく、その推論能力には限界があり、常に誤り得るものである以上、
そうした善美なるものについての普遍的真理についての探求は、完遂することはなく、その知のあり方は、常に不完全な知のままにとどまり続けると考えられることになります。
つまり、
人間は、神のように全知全能であることはあり得ず、知の探究を行うことができる人生の長さも限られているので、
どこまで人間の知が進歩していっても、それが完全なる神の知へと到達することはあり得ないと考えられるということです。
そして、
そういう意味では、人の知における無知のあり方は、
知性を持たない動物や、まだ何も知らない赤ん坊におけるような真っさらな白紙のような無知ではなく、
全知全能の神のようには知ることができないという神のみが所有し得る知に対する無知であると考えられることになります。
つまり、
ソクラテスの無知の知における無知とは、
本当に何にも知らない白紙の状態のような無知ではなく、それは、善美なるものの普遍的真理について神のようには知らないという神の知に対する無知であると捉えられるということです。
神と被造物の間に位置する人間の知のあり方
そして、
人間における知のあり方が、動物や赤ん坊のような全くの無知の状態でもなく、神の知におけるような普遍的真理についての完全な知へと至るものでもないとするならば、
それは、完全なる知性を持つ神と、知性を全く持たない動物との間にある、不完全な知のあり方をしていると考えられることになります。
つまり、
ソクラテスの無知の知の解釈に基づくと、人間が持つ知のあり方は、
神と被造物の間に位置する知であると考えられるということです。
そして、そういう意味では、以上のような点において、
神によって造られたままに存在する動物や植物などの単なる被造物と、同じく神によって造られた被造物でありながら、自らの知性によって新たな知を獲得し、自分自身のあり方を常に変革し、進歩させ続けることができる人間との違いがあるとも考えられることになるのです。
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以上のように、
人間の知のあり方は、神における完全な知と被造物における完全な無知との間に位置する常に不完全な知のあり方にとどまり続けるものであり、
人間の知性に基づく知の探究は、どこまで行っても善美なるものについての普遍的真理へと到達することがない不十分なものであると考えられることになります。
しかし、そうすると、
人間が善く生きるために本当に必要な知のあり方である善美なるものについての普遍的真理を得ることが原理的に不可能である以上、
人間が自らの知性に基づいて行う善美なるものについての知の探究、すなわち、ソクラテスが求める哲学的探究は、単に、そうした事柄についての自らの無知を思い知ることだけの否定的な探究にとどまってしまうようにも思えることになります。
それでは、
善美なるものについての哲学的探究をどこまで進めていっても、そこからは、自らが善く生きることにつながるような普遍的真理は何も得ることはできずに、
あらゆる哲学的探究は、結局は、はじめから何も探究しなかったのと同じ、無駄な努力、無益な徒労に終わることになってしまうのでしょうか?
次回は、そうした無知の知と呼ばれる人間の知の探究が行き着く先に何があるのか?そして、そうした哲学的探究にはどのような肯定的な意味を見いだしうるのか?という問題について考えてみたいと思います。
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次回記事:神の知へと続く無限の螺旋階段を上る永遠に終わることなき知の探究の道、ソクラテスの無知の知とは何か?⑧
前回記事:善美なるものの普遍的真理についての無知と善のイデア、ソクラテスの無知の知とは何か?⑥
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