善美なるものの普遍的真理についての無知と善のイデア、ソクラテスの無知の知とは何か?⑥
これまでの議論で考えてきたように、
ソクラテスの無知の知と呼ばれる知の探究においては、問答法を用いることによって人間の知のあり方についての探究が進められ、それぞれの対話相手における無知のあり方が明らかにされていくことになります。
そして、
そうした問答法によって明らかにされる無知とは、具体的にどのような事柄についての無知なのか?というと、
それは以下で述べるように、善美なるものという言葉によって表現されるような知についての無知であるということになります。
善美なるものの普遍的真理についての無知
ソクラテスが指摘する人間の知における無知のあり方、すなわち、無知の知の具体的な内容については、『ソクラテスの弁明』において以下のように語られています。
私の方が彼よりは知恵がある。
なぜかといえば、私も彼も善美なるものについては何も知っていないと思われるが、彼は何も知らないのに何かを知っていると思い込んでいるのに対して、私は何も知りもしないがそれを知っているとも思っていないからである。
それゆえ、自分が知らないことを知っているとは思っていないという限りにおいて、彼よりも私の方が少しばかり知恵があると思われるのである。
(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第6節)
このように、
ソクラテス自身の言葉としては、人間の知の探究において問題となる無知とは、善美なるもの(kalon kagathon、カロン・カガトン)についての無知であると語られています。
善美なるものとは、善いものと美しいもの、すなわち、人間の人生と生活をより善くより美しいものにするために必要な知のあり方ということです。
そして、さらに、
職人における知のあり方の吟味の段で明らかにされているように、
それは、単に人間の人生と生活を豊かにする何らかの知識について知っていればいいというだけではなく、
そうした善美なる事柄の全体についての包括的で普遍的な知が必要であるとされることになります。
つまり、
人間が善く生きるためには、善美なるものについての包括的で普遍的な知、すなわち、善美なるものについての普遍的真理を把握することが必要だと考えられるということです。
包括的で普遍的な知としての善美なるものと善のイデア
それでは、
そうした包括的で普遍的な知としての善美なるものについての知はどのような知の吟味と探究によってもたらされるのか?ということですが、
まず、
そのまま文字通りに捉えて、善美なるものについての包括的な知を得るためには、この世界に存在する善や美に関わるあらゆる物事を知り尽くさなければならないと解釈すると、
そうした包括的で普遍的な知を得るためには、世界中のあらゆる学問におけるあらゆる知見を学び尽くしたうえで、個々の人間におけるあらゆる生活の知恵なども収集し尽くさなければならないということになります。
しかし、
そうした膨大な量の知を処理することは個人としての人間の能力においては不可能であるというだけではなく、実際には、世界では常に新しい知が生み出されていくことになるので、
そうした現時点ではまだ存在していない知のあり方も含めて、善や美に関わるあらゆる知識を収集し尽くすことは、時間の流れの中に位置する現実の世界の内においては、
神のごとき完全な知性によってすら不可能ということになってしまいます。
つまり、
現実の善や美に関わる個々の知のあり方のすべてを網羅することによって善についての普遍的真理を把握しようとすると、そうした探究の試み自体が論理的に破綻してしまうことになり、
包括的で普遍的な知の存在自体が原理的に不可能ということになってしまうのです。
そして、その場合、
無知の知は、自分がその知についていまだ知っていないことを自覚する知のあり方ではなく、そもそもその知自体が存在しえないあらぬもの、すなわち非存在について知ということになってしまうので、
それは、無知の知というよりは、むしろ非知の知とでも言うべき、ソクラテスが指摘しているのとはまったく別の知のあり方ということになってしまいます。
したがって、
善美なるものについての包括的で普遍的な知を得るためには、上記のような個々の善や美に関わるすべての知識を網羅するように集めるといった帰納的な探究ではなく、
個々のすべての善美なるものが、善美なるものとされるための拠り所となっている、善美なるものについての本質的で根源的な一なる定義を論駁と推論によって明らかにしていくという
ソクラテスの問答法におけるような演繹的な探究方法が必然的に求められることになるのです。
そして、
包括的で普遍的な知としての善美なるものについての知は、善美なるものについての普遍的な定義についての論駁と推論によってもたらされ、
そうした善についての包括的で普遍的な知としての善美なるものそのものについての知によって一人一人の人間の善い生き方や個々の善い行いのすべてがもたらされるという以上のような考え方は、
一つ一つのあらゆる善いもの、美しいものの根源には、そうした個々の善いものの全体を成り立たせている普遍的な善の観念、すなわち、善のイデアがあり、
究極的には、そうした善のイデアが根本原理となって、世界の内のあらゆる存在が形づくられているとするプラトンにおける善のイデアの思想へとつながっていくことになるのです。
・・・
以上のように、
ソクラテスの無知の知と呼ばれる人間の知のあり方の探究において問題となっている無知のあり方とは、善美なるものについての包括的で普遍的な知についての無知であり、
善美なるものについての普遍的真理は、ソクラテスの問答法におけるような論駁と推論を通じて善美なるものについての普遍的な定義がもたらされることによってのみ得られると考えられることになります。
そして、
そうした普遍的真理としての善美なるものについて、当の人間自身は根本的な意味において無知であるということを問答法を用いた知の吟味と探究によって自覚するのがソクラテスの無知の知の具体的な内容であると考えられることになるのです。
以上の議論を踏まえたうえで、次回はさらに、
そうした包括的で普遍的な知としての善美なるものについての知の探究は、人間の知のあり方においてどのように進められていくことになるのか?ということについて、
神の知と人の知のあり方の対比といった観点から詳しく考えてみたいと思います。
・・・
次回記事:神と被造物の間に位置する人間の知のあり方、ソクラテスの無知の知とは何か?⑦
前回記事:政治家と詩人と職人における三つの無知のあり方、ソクラテスの無知の知とは何か?⑤
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