クロワッサンの起源と由来とは?二つの伝承とキプフェルそしてイスラム教諸国との関係
クロワッサンとは、
フランス語で「三日月」のことを意味する
croissant(クロワサン)を語源とするパンであり、
その起源については、フランスのパリであるとする説のほかに、
オーストリアのウィーンであるとする説、
さらには、ハンガリーやセルビア、ボスニアなどの
東ヨーロッパをもともとの起源とする説など様々な説があります。
そして、
クロワッサンは、とある伝承との関係から、イスラム教のシンボルとも深い関わりのある食べ物としても捉えられることになるのです。
クロワッサンの起源とされる伝承とオスマン帝国に対するヨーロッパの勝利
まず、はじめに、
クロワッサンがオーストリアのウィーンからはじまったとする説では、
その起源は、オスマントルコ帝国がヨーロッパを席巻し、
かつてのローマ帝国にも匹敵する広大な版図を築き上げていた時代である
第二次ウィーン包囲下のオーストリアにまでさかのぼることになります。
1683年の第二次ウィーン包囲の段階において、
すでに、エジプトを含む北アフリカ一帯とギリシア、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーといった南東ヨーロッパの国々の大半がオスマン帝国の手中に帰していて、
地中海世界の中で、オスマン帝国の支配下にない地域はイタリアとフランス、スペインを残すのみという状態にまで陥っていていました。
そして、
中央ヨーロッパ最大の拠点であるウィーンが陥落してしまえば、
その先には、トルコ軍の進軍を遮るものは何もなく、
地中海世界全体、さらには、ヨーロッパ全土がイスラム教国であるオスマン帝国によって飲み込まれてしまうことさえあり得るというキリスト教諸国にとっての存亡の危機が迫るなか、
ウィーンは、言わば、オスマン帝国の進撃からヨーロッパのキリスト教国全体を守る最後の防波堤として、その後のキリスト教世界とイスラム教世界との興亡の命運を握る存在となっていたのです。
10万を超えるオスマン帝国の大軍による包囲攻撃を受け、風前の灯となるウィーンの町の城壁の内部では、ヨーロッパのキリスト教世界全体を守るための必死の防戦が続けられていくことになるですが、
こうした籠城軍の士気の高さと、ウィーンの町を守る城壁の堅固さに攻めあぐねたトルコ軍は、兵の消耗を避けるために、城壁を正面突破することを諦め、
密かに城壁の下にトンネルを堀り進め、そこに爆薬を仕かけることによって、城壁ごと爆破してしまうという大規模工作へと打って出ることになります。
しかし、
こうしたトルコ軍による秘密工作は、ウィーンの城壁の内部に立てこもる町の人々が地下道を掘り進める音を聞きつけたことによって発覚してしまうことになり、
トルコ軍が堀り進めていたトンネルは、籠城軍の手によって爆破されてしまうことになります。
そして、
トンネル作戦が大失敗に終わり、ウィーンの城壁を突破するための方策が尽きてしまったことでトルコ軍側の士気が大きく低下するなか、
ウィーン救援のためにこの地に集結していたオーストリア、ドイツ、ポーランドを中心とするヨーロッパ各地から集まった諸侯たちの軍勢がトルコ軍へと一気に襲いかかり、
キリスト教国によるヨーロッパ連合軍によってイスラム教国であるオスマン帝国の大軍が打ち破られることになるのです。
ここにおいて、
ローマ帝国をも凌駕する地中海帝国の完成を目指した
オスマン帝国によるヨーロッパ征服の野望は完全についえることとなり、
以降、衰退の一途をたどることになるオスマン帝国とは対照的に、
ヨーロッパのキリスト教諸国は、産業革命の進展を原動力に、ギリシアやブルガリアといったヨーロッパの南東地域はもちろん、アフリカ、さらには、イスラム教諸国のひしめく中東までをもその支配下へとおさめていくことになるのです。
そして、
クロワッサンの起源にまつわる伝承では、
こうしたオスマン帝国による包囲下のウィーンにおいて、トルコ軍がトンネルを掘り進める音を聞きつけた市民が、ウィーンの町を守る兵士たちの明日の朝食のために夜通しでパンの生地をこねていた一人のパン職人であったとされることになります。
そして、
このパン職人の働きもあってオスマン帝国の大軍を打ち払うことに成功したヨーロッパの人々は、彼の功績を讃えて、
彼が焼き上げた、オスマン帝国の国旗に描かれている三日月のマークをかたどって作られた三日月型のパンをみんなで食べることによって、
ウィーンの町、さらには、ヨーロッパのキリスト教国全体のオスマン帝国に対する勝利を祝ったとされていて、この時に食された三日月型のパンがクロワッサンの起源とされることになるのです。
ちなみに、
クロワッサンの起源をハンガリーのブダペストであるとする
もう一つの伝承においては、その起源は以下のように語られることになります。
1683年の第二次ウィーン包囲からのウィーン解放後、勢いづくヨーロッパ連合軍は、
そのまま一気に南東ヨーロッパ全域へと軍勢を押し進めていくことになります。
1686年、ヨーロッパ連合軍によるオスマン帝国支配下のヨーロッパ諸国の解放と再征服のなかで、南東ヨーロッパの主要国であったハンガリーの首都であるブダペストも、3年前のウィーンと同様のトルコ軍による包囲攻撃を受けることになるのですが、
ここでも、トルコ軍との戦闘にまつわる上記の第二次ウィーン包囲戦におけるものとほぼ同じ内容の逸話が語られることになります。
そして、
ブダペストでも同様に、トルコ軍を打ち破った勝利を祝って、ヨーロッパ側の兵士と市民たちによって三日月をかたどったパンが食されることになり、
それがクロワッサンの起源であるとされることになるのです。
検証可能な歴史上の記録におけるクロワッサンの起源とキプフェル
一方、一次資料の集積に基づく検証可能な歴史上の記録においては、
現代のようなバターをたっぷり塗ったパイ生地を何層にも重ねて作り上げるタイプのクロワッサンが定着し、ヨーロッパ各地に広く普及していったのは、19世紀前半のパリということになります。
1838年~1839年頃に、
オーストリア人の起業家アウグスト・ツァング(August Zang)によって、
“Boulangerie Viennoise“(ブーランジェリー・ヴィノワーズ、「ウィーン風のパン屋」という意味)という名前のパン屋がパリに開かれることになるのですが、
ここで売り出されたウィーン風のパン菓子を契機に、
19世紀前半のパリにおいて、
ヴィエノワズリー(Viennoiserie)と呼ばれる
バターや牛乳、クリーム、砂糖といった材料を多く用いたパイ生地(pastry、ペイストリー)を薄く何層にも重ねた焼き菓子が人気を博することになります。
そして、
こうしたヴィエノワズリーと呼ばれる焼き菓子の中には、上記のようなバターをたっぷり塗ったパイ生地を何層にも重ねて三日月型に焼き上げるタイプのパン菓子も含まれていたのですが、
これがフランス国民に広く好まれ、定着していくことによって、フランス語で”croissant“(クロワサン、三日月)と呼ばれるようになり、現代のクロワッサンと呼ばれるパンの種類へとつながっていったと考えられることになるのです。
つまり、
現代におけるクロワッサンの直接の起源は、
19世紀前半のパリにおいて人気を博したヴィエノワズリーと呼ばれる薄いパイ生地を重ねた焼き菓子の種類内の三日月タイプのパン菓子に求めることができるということです。
これに対して、
現代のクロワッサンの原型となる単なる三日月型のパンとしては、
すでに13世紀頃までには、ドイツやオーストリア、セルビア、ボスニア、ハンガリーといった東ヨーロッパを中心とする地域で作られるようになっていたと考えられる
ドイツ語で、キプフェル(Kipferl)または、キプフ(Kipf)
ハンガリー語では、キフリ(Kifli)と呼ばれるパンの種類が挙げられることになります。
キプフェルは、現代のクロワッサンとは違い、バターや砂糖の風味やパイ生地のサクッとした食感もない、どちらかというと、様々な形状をした細長いロールパンといった感じのパンなのですが、
通常、キプフェルは、三角形に切断したパン生地をロールパンを作るときのように丸めていく形で作られることになるので、
三角形の生地を丸めていく時にできる、生地の先端部分と中央部分との厚みの差によって、
パンを焼き上げたときに三日月特有の先端が少しすぼまった形が出来上がることになります。
※ただし、キプフェルの場合、クロワッサンとは違い、必ずしも先端部分を内側へと曲げて三日月型の形状に仕上げる必要はないので、丸めた生地をそのまま真っ直ぐに焼き上げた場合などは、一見すると普通のコッペパンに似たような形状となります。
そして、以上のような経緯から考えると、
上述したトルコ軍によるウィーンやブダペスト包囲時の伝承において語られている三日月型のパンの記述についても、
それは、現代におけるクロワッサンというよりは、
実際は、むしろ、上記のキプフェルやキフリといった
三日月型の形状をしたロールパンのようなものに近いパンだったと考える方が実情に即した解釈と言えるかもしれません。
クロワッサンとイスラム教諸国との関係
ちなみに、
オスマン帝国の国旗に描かれていた三日月の紋章は、様々な経緯から、
現代でも、イスラム教諸国全体を象徴するシンボルとしても用いられていくことになるのですが、
それと、上述したようなクロワッサンの起源とされる伝承との関係から、
クロワッサンは、イスラム教諸国との関係において微妙な立場に立たされてしまうことにもなります。
例えば、
2013年にシリアの都市アレッポが
イスラム原理主義の反政府組織によって占領された際に、
シャリア委員会(イスラム法に基づく統治組織)によって、
「三日月の形状をしたパン菓子(ペイストリー)は、ヨーロッパ人たちによるムスリム(イスラム教徒)の征服と抑圧を意味する」という宣言がなされ、
彼らが統治するアレッポ市内において、
クロワッサンを作ることも食べることも禁止するという事態にまで至ってしまうということがありました。
上記のような事件は、原理主義に基づくイスラム教の極端な解釈の一例に過ぎないので、通常のイスラム教諸国において、クロワッサン自体が特別に敵対視されるということはないと考えられるのですが、
現代でも、国旗に三日月の紋章が描かれているような
イスラム教が広く信仰されている国々では、
その国の人々の目の前でこれ見よがしクロワッサンに噛りついていると、それは、下手をすると「おまえの国も宗教も俺の歯で噛み千切ってやる」と言っているような意味にとられかねないと言えなくもないので、
旅行でイスラム教が広く信仰されている国を訪れた際に、
人目につく大通りを歩く時には、
食パン(イギリスパン)やフランスパンをかじりながら歩くのはいいにしても、
念のため、クロワッサンを食べながら大手を振って歩くのはやめておいた方がいいかもしれませんね。
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関連記事①:パンの語源と由来とは?ラテン語のパニスの意味とローマ神話のパンの神
関連記事②:
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