イスラム教の三日月と星のシンボルの由来とは?赤新月とオスマン帝国の国旗と東ローマ帝国の硬貨

トルコ共和国、アルジェリア、チュニジア、アゼルバイジャン、ウズベキスタン、パキスタン、ネパール、マレーシア、シンガポールといったイスラム諸国国旗には、三日月と星をかたどったマークが描かれていますが、

こうした三日月のマークは、
他のどのような場面で見ることができるのでしょうか?

そして、こうしたイスラム教の三日月と星のシンボルは、
どのようなことに由来するシンボルなのでしょうか?

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赤十字と赤新月と赤いクロワッサン

イスラム圏において三日月と星のマークが使用されるのは、
必ずしも国旗といった政治的なシンボルにおいてだけではなく、

例えば、

救急車救護所などに使用されることでお馴染みの白地に赤い十字を描いた
赤十字」(Red Crossレッド・クロス)のマークについても

イスラム圏においては、赤い三日月の姿を描いた
赤新月」(Red Crescentレッド・クレセント)のマークが代わりに使われることになります。

この場合の日本語における「新月」とは、満月の対義語である完全に欠けたまったく見えない月のことを意味するわけではなく、新月のもう一つの意味である、まったく見えない状態を少し過ぎた頃に、西の空に見える細い弓形の月、つまり三日月のことを指す概念ということになります。

赤十字とは、もともと、

1863年、スイス人のアンリ・デュナンHenri Dunant)によって提唱され、その翌年に創設された、戦時に、中立の立場から敵味方の区別なしに傷病者の救護を行うことを目的とする国際協力組織のことを示すシンボルだったのですが、

それが、戦時に限らず、災害時平時においても、医療衛生面における人道支援活動を広く行っていく国際赤十字運動International Red Cross Movement)へと発展していくことによって、

現代では、医療機関人道支援のことをイメージさせる象徴的なマークとして広く認知されるようになりました。

しかし、イスラム圏の国々では、

十字crossクロスのマークは、11世紀から13世紀にかけて聖地エルサレムの奪還を名目に当時のイスラム教諸国を侵略し、イスラム教徒の虐殺を行ったヨーロッパのキリスト教国による十字軍crusadeクルセイド)のことを連想させるシンボルでもあったので、

イスラム圏の人々にとっては、キリスト教諸国による侵略と虐殺の象徴であるとも捉えられかねない十字のマークを、そのまま人道支援を象徴するマークとすることは受け入れ難いという事態が生じることになりました。

そこで、

イスラム圏の国々でも、赤十字の思想に基づく国際的な人道支援活動を広くスムーズに展開していくために、これらの地域では、

キリスト教や十字軍を連想させる「十字」(crossのマークの代わり、
イスラム教のシンボルでもある「三日月」(crescentのマークが使われるようになり、

それにしたがって、イスラム圏の国々では、

国際赤十字運動(International Red Cross Movement)も
国際赤新月運動(International Red Crescent Movement)という名に呼び変えて活動が行われるようになっていったのです。

ちなみに、

英語の”crescent“(クレセント)とは、三日月の他に、フランス発祥の三日月形のパン、すなわちクロワッサンのことも意味する単語ですが、

「赤新月」という言葉も、フランス語ではそのまま、赤いクロワッサン、すなわち、
Croissant-Rouge“(クロワサン・ルージュ)と呼ばれることになります。

オスマン1世の三日月の夢の伝説とローマを引き継ぐ世界帝国への夢

それでは、

こうしたイスラム教の三日月と星のシンボルは何に由来するのか?というと、

それは、直接的には、15世紀から16世紀にかけて西アジアから北アフリカ、そして南東ヨーロッパ一帯を席巻する世界帝国を築き上げたオスマン帝国の国旗に描かれていた三日月と星の紋章に由来すると考えられることになります。

オスマン帝国の国旗に描かれている三日月と星の紋章の起源については諸説あるのですが、その大本となる起源は、オスマン帝国建国者にして初代皇帝であるオスマン1世が若き日に見たとされる三日月の夢の伝説にまでさかのぼることができます。

伝説によれば、オスマン1世は、トルコの偉大な部族の血を引くカーディーqadi)と呼ばれる宗教的指導者であった長老エデバリの娘マルカトゥンを自らの妻に迎える際に、以下のような幻想的な夢を見たとされています。

エデバリの胸より出でし一つの月が空へと昇っていく。
天空へと達した月が再び地上へと降りてくると
その月は私の胸の内へと入り込む

すると、私は一本の樹となり
腰から伸びる緑の美しい枝葉の影が大地を覆いつくし
その根はチグリスユーフラテスナイルドナウの四つの川の源となる。

そして、大地に風が吹きはじめると、まるで剣のような形をした樹木の葉が
西の方角を指すのを私は見た。

つまり、この夢の伝説では、

エデバリの娘であるマルカトゥン月の姿として現れていて、オスマンとマルカトゥンの二人が一体となることによってオスマン帝国の礎が築かれること、

そして、二人が築く国がチグリス・ユーフラテス川ナイル川ドナウ川が流れる
オリエントエジプト、そしてヨーロッパという三つの世界を支配することが予言されているということです。

そして、

この夢は、最後に、剣の形をした葉西の方角を指し示すところで終わっているのですが、

トルコにとって西の方角というのは、当時、バルカン半島を中心に栄えていた東ローマ帝国の都コンスタンティノープルが位置する方角ということになるので、

この夢は、オスマン1世が築く国が偉大な帝国となるだけではなく、
その帝国の進撃の矛先がヨーロッパへと向けられ、千年の都コンスタンティノープルをも飲み込み、オスマン帝国が東ローマ帝国を引き継ぐ世界帝国として西方世界に君臨することを象徴する夢となっているとも考えられることになるのです。

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東ローマ帝国の硬貨における三日月と星のシンボル

以上のように、

上記のオスマン1世の夢の伝説では、月のイメージは強く打ち出されているのに対して、星のイメージの方は、あまり明確な形では出てこないのですが、

その一方で、

こうした三日月と星のシンボルは、のちにオスマン帝国によって滅ぼされることになる東ローマ帝国ビザンツ帝国)を象徴するシンボルともなっています。

例えば、

古くは、紀元前4世紀頃の段階から、のちに東ローマ帝国の都となるビザンチウム(のちのコンスタンティノープル)では、硬貨に刻印する紋章として三日月と星のマークが描かれるようになっていきますが、

こうした硬貨のデザインは、その後、東ローマ帝国末期に至るまで使われ続けていくことになり、その他にも、キリスト教の聖人や英雄の盾などの紋章にも三日月と星のマークが描かれていくことになります。

そして、

1453年コンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国ビザンツ帝国)が滅亡すると、これを征服したオスマン帝国の領内にもビザンツ帝国に由来する三日月と星のマークが描かれた硬貨広く流通していくことになり、

こうしたなか、

オスマン帝国は、東ローマ帝国のシンボルでもあった三日月と星のマーク自らの帝国の権威を象徴するシンボルともする形で継承していったとも考えられることになるのです。

そして、

オスマン帝国が衰退していく19世紀以降になると、今度は、かつてはヨーロッパ世界をも席巻したイスラム世界帝国としてのオスマン帝国の権威を引き継いでいく形で、他のイスラム諸国へもオスマン帝国旗に描かれている三日月と星の紋章が受け継がれていくことになり、

三日月と星のマークは、東ローマオスマン帝国、そして、イスラム教自体のシンボルでもあると捉えられるようになっていったと考えられるのです。

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