パルメニデスの存在の一元論とは何か?②メリッソスの数的一元論
前回の議論で考えたように、
パルメニデスの段階では、
均一性、全一性(完全性)、同一性という
「あるもの」(to eon、ト・エオン)の本性規定に基づく
内的な統一性としての存在の一元論は語られているのですが、
それは、いまだ、
すべての存在が真なる実在である一なる存在の内にあり、
あらゆる存在がその唯一の真の実在に基づいて存在するいう意味での
存在の数的一元論には至っていないと考えられます。
それでは、
パルメニデスにはじまる
エレア学派の存在の哲学において、
真なる実在の数的一性が
明確に打ち出されるのはどの段階であり、
その思想は、どのような過程で形成されていくのでしょうか?
完全性と無限性
パルメニデスの弟子である
メリッソスにおいて、
真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)は、新たに、
空間的にも時間的にも無限な存在として捉えられることになります。
このことは、詳しくは、
「あるもの」(ト・エオン)の空間的無限性と時間的永遠性
で考察していて、
そのときは、
パルメニデスにおける「あるもの」の本性規定の内の
不生不滅性と無尽蔵性の規定から、
空間的無限性と時間的永遠性の導出を行ったのですが、
「あるもの」の空間的・時間的無限性は、
前回、パルメニデスにおける内的な統一性としての存在の一元論を
構成する規定として取り上げた
全一性ないし完全性という本性規定からも
直接、導き出すことができます。
全一性とは、完全に一つにまとまっているということであり、
完全性とは、欠けるところがなく、すべてに満たされている
という意味の概念ですが、
真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)において、
それが、
真の意味で完全であるということは、
そのものが
能力において限りがないということを意味します。
例えば、ある存在が、
雨を降らせる能力は持っているが、
風を吹かせる能力は持っていないとすると、
その存在は、雨を降らせるだけで、風を吹かせることはできないという
能力の限界があることになりますが、
それは、風を吹かせることができないという
能力の欠如として捉えることもできます。
このように、
能力に限界があるということは、その限界を超えた能力はないという意味において、
能力に欠けるところがあることを認めることになりますが、
完全性とは、先ほど述べたように、
欠けることがなく、すべてに満たされている状態を示す概念なので、
能力に欠けるところがあるものは、
完全な存在とは言えないということになるのです。
つまり、
ある存在が真の意味で完全性を持つかどうかを問うとき、
それが、何でもできる完全無欠の無限の能力を持っている
全能の存在であるのでなければ、
その存在は、
真の意味での完全なる存在とは言えないということです。
そして、
その能力の無限性は、
空間や時間についても
無限に広く、無限に遠く及ぶことになるので、
真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)は、
あらゆる場所、あらゆる時間に遍く存在する
時間的にも空間的にも無限な存在ということになるのです。
完全であるものは、
いかなる意味でも限りを持たず、
そのものにおいては、
能力においても空間・時間においても
限界がなく、どこまでも無限であるということです。
無限性に基づく「あるもの」の数的一性の必然的論証
そして、
メリッソスの論証に従うと、
以上ような、空間的・時間的無限性から、
真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)の
数的一性が必然的に導き出されることになるのですが、
それは、以下のような議論によります。
「あるもの」(ト・エオン)が数として一ではないと仮定すると、
それは、数として多であるということになります。
そして、多である存在は、互いに、境界を持ち、
それぞれの領域が区分けされることによって、
互いに別々の存在として成立することになりますが、
「あるもの」が境界を持つということは、
そのものにおいて、自分の存在が及ばない領域があるということになるので、
「あるもの」は空間的に限界を持つということになります。
しかし、
「あるもの」が空間的に限界を持つということは、
先に述べた、「あるもの」が空間的・時間的に無限であるという規定と
正反対の結論ということになり、
「あるもの」についての二つの本性規定の間に
大きな矛盾が生じてしまうことになります。
したがって、
背理法(ある命題と正反対の命題が真であると仮定して、そこから矛盾を導くことにより、元の命題が真であることを証明する論法)により、
最初の「あるもの」が数として多であるという仮定自体が覆され、
「あるもの」は、数として一であるという
真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)の
数的一性が必然的に論証されることになるのです。
・・・
このように、
パルメニデスにはじまるエレア学派の存在の哲学は、
メリッソスによって、
不生不滅性と無尽蔵性、さらに、完全性に基づいて、
「あるもの」の無限性が導出され、
そうした無限性に基づいて、今度は、
「あるもの」の数的一性が証明されることになります。
そして、このことは、
メリッソスの段階において、はじめて、
真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)が、
数として多ではなく一であり、
自らの外にはいかなる存在も認めず、
すべての存在が真なる実在である一なる存在の内にある
排他的で絶対的な唯一無二の実在であるということが
必然的に論証されたということを意味するのです。
以上のように、
パルメニデスの
存在の哲学の一元論としての思想体系は、
その弟子であるメリッソスの
存在の数的一元論の哲学において完成すると考えられます。
・・・
このシリーズの前回記事:
パルメニデスの存在の一元論とは何か?①三つの一性に基づく一元論
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