パルメニデスの存在の一元論とは何か?①三つの一性に基づく一元論

パルメニデスの存在の哲学は、

すべての存在が真なる実在である一なる存在の内にあり、
その真なる実在の外には何も存在せず
あらゆる存在がその一なる真の実在によってのみ存在するという

存在の一元論の思想として捉えることができますが、

パルメニデスにはじまる、こうした存在の一元論の思想は、

プラトンのイデア論やプロティノスの「一者」の思想といった
その後の観念論((英)idealism、(仏)idealismeイデアリスム)哲学における

すべての一元論的思考原型となっていくことになります。

このような、パルメニデスにおける存在の一元論の思考とは、
具体的にどのようなものであり、
その思想はどのような過程で形成されていったのでしょうか?

そして、それは、
その後の哲学思想の流れに直接どのような影響をもたらしたのでしょうか?

こうした問いについて、
これから三回にわたって考えていきたいと思います。

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均一性・全一性・同一性という三つの一性

パルメニデスの存在の哲学において、

真なる実在である「あるもの」(to eon、ト・エオンの姿は、
以下のようなものとして捉えられています。

あるもの(to eon、ト・エオン)は、
全体にして一様であり、
完全にして揺るぐことがない。…

一挙に全体として、
一つにつながり合うものとして。…

それは、どの方から見ても
自らと等しくあり、またひとしくいましめられている。

(パルメニデス・断片8)

ここで、

全体にして一様である」とは、
すべてが均一で同質な状態になっていることと捉えられるので、

この部分の規定は、「あるもの」(ト・エオン)が
全体として同一の規定を受けているという

「あるもの」の均一な規定性という本性規定を示していると考えられます。

次に、

完全にして揺るぐことがない」という部分は、
欠けることがなく完全で自己完結した状態と捉えられるので、

この部分の規定は、「あるもの」の
完全性・完結性という本性規定を示していると考えられます。

また、

自らと等しくある」という部分は、
常に自分自身として一定の状態にあり続ける、すなわち、
自分自身として同一であり続ける状態と考えられるので、

この規定は、「あるもの」の
同一性という本性規定を示していることになります。

そして、これらのことを考え合わせると、

パルメニデスにおいては、
真なる実在の姿は、

「全体にして一様である」という均一性
「完全にして揺るぐことがない」という全一性(完全に一つにまとまっていること)
「自らと等しくある」という同一性

という三つの一性を持った存在として
捉えられることになるのです。

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内的な自己統一性としての一元論

以上のように、

パルメニデスの存在の哲学においては、

真なる実在は、
均一性全一性同一性を有する存在
として捉えられることになるわけですが、

これらの三つの一性の規定は、

真なる実在の内における
内的な均一性、内的な完結性、内的な同一性というように、

すべて、存在についての
内的な自己統一性の規定を示していると考えられるので、

それだけでは、

真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)が、
自らの外にはいかなる実在も認めない

数として唯一無二の存在であるということは
必ずしも意味しないことになります。

強いて言うならば、

先に挙げた引用部分の
一挙に、全体として、一つにつながり合うものとして

という部分に、

一挙に」「一つに」という
数としての一の概念を見いだすことはできるのですが、

ここでは、「あるもの」(ト・エオン)が
全体として一つにつながり合っているという

「あるもの」の内的な連続性不可分性を示す意味で、
「一挙に」「一つにつながり合う」といった言葉が使われていると考えられるので、

やはり、この部分からも、

真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)の外にはいかなる実在も存在せず、
それは、数として唯一無二の存在であるという

明確な形での数的一性の主張は読み取れないことになります。

つまり、

パルメニデスの段階では、

真なる実在が数として多ではなく一であり、

個々の存在のすべてが、真なる実在である唯一の存在の内にあり、
あらゆる存在がその唯一の真なる実在に基づいて存在するという意味での

存在の数的一元論の主張は、
まだ明確には打ち出されてはいない

ということです。

・・・

以上のように、

パルメニデスの存在の哲学においては、
均一性全一性同一性という

内的な自己統一性としての存在の一元論が語られているのであって、

それは、

自らの外のあらゆる実在を否定し、
すべての存在を自己自身の内に包括する

排他的絶対的な意味における存在の数的一元論には
いまだ至っていないということになるのです。

それでは、

パルメニデスの存在の哲学における
内的な統一性としての存在の一元論は、

どの段階において、
絶対的な数的一性としての存在の一元論として完成するのか?
ということですが、

それについては、次回、詳しく考えていきたいと思います。

・・・

このシリーズの次回記事:
パルメニデスの存在の一元論とは何か?②メリッソスの数的一元論

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