原子論(アトミズム)とパルメニデス②マクロコスモス(大宇宙)からミクロコスモス(小宇宙)への転換

前回の記事では、

パルメニデスの存在の哲学から
デモクリトスの原子論atomismアトミズム)への展開は、

マクロからミクロへの視点の転換として
捉えることができると書きましたが、

それは、より具体的にはどのような構図として
捉えることができるのでしょうか?

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宇宙全体を包み込む巨大な真球(スパイロス)

パルメニデスは、

その唯一の著作である六脚韻の叙事詩において、

真理の道である「あるの道」について語り、
真なる実在である「あるもの」(to eonト・エオンの姿
様々な形で表現していますが、

その詩の結びの段において、

「あるもの」すなわち、真なる実在の姿は、
以下のようなものであると語られています。

それ(「あるもの」)は、完結しており、
どの方から見ても丸い球に似ている

(パルメニデス・断片8)

つまり、

パルメニデスにおいて、
「あるもの」すなわち、真なる実在の姿は、

全体が均一にして、一つに完結した
真球sphairosスパイロス、完全なる球体)

のようなものとして捉えられているということです。

そして、

パルメニデスの存在の哲学において、

真なる実在とは一つであり、
すべてが一挙に全体として一つにつながり合う
ものとして捉えられているので、

パルメニデスが言う
一なる存在として完結した真球スパイロス)である
真なる実在の姿とは、

言わば、

宇宙全体をすっぽりと包み込むような、
一つの巨大な球体のイメージということになるのです。

人間と宇宙を構成する小さな丸い粒子

それに対して、

デモクリトス原子論においては、

原子論が確立された段階では、
原子には、大きさも形も多様な種類があり、

球体の形をした原子だけではなく、
鋭く尖った形をした原子などもあるとされるようになりますが、

例えば、人間の魂を構成する原子のような
基礎的で重要な原子は、球状の形をした極めて微細な粒子とされているように、

基本的な原子のイメージとしては、古代ギリシアの原子論においても、
目に見えないほど小さな丸い球体のイメージということで
間違いはないと考えられます。

つまり、

デモクリトスの原子論においても、

分割不可能な実在の基本単位である
原子atomaアトマ)の姿は、

パルメニデスの存在の哲学における真なる実在である
あるもの」(to eonト・エオン)の姿と同様に、

丸い球体のイメージで捉えられているということになるのですが、

同じ球体のイメージと言っても、

原子論においては、
実在の基本単位である原子アトマ)の姿が、

人間といった個々の存在を構成する
無数に存在する、微小な粒子のイメージとして捉えられている点が
大きく異なると考えられるのです。

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大宇宙(マクロコスモス)から小宇宙(ミクロコスモス)への転換

以上のように、

同じ丸い球体のイメージとして捉えられる
実在の姿が、

パルメニデスの存在の哲学においては、
宇宙全体を包み込む巨大な球体のイメージとして捉えられていたのに対して、

デモクリトスの原子論においては、
人間といった個々の存在を構成する微小な粒子として捉えられている点に、

マクロの視点における「あるもの」(ト・エオン)から
ミクロの視点における原子アトマ)への
視点の転換の本質があると考えられます。

そして、そもそも、

ミクロコスモスMikrokosmos小宇宙という概念自体が
デモクリトスによって、はじめて用いられたと考えられるのですが、

パルメニデス、エレア学派から
原子論(アトミズム)への哲学的理論の展開は、

エレア学派において、宇宙全体を包括する
マクロコスモスMakrokosmos大宇宙)として捉えられていた
「あるもの」(ト・エオン)が、

原子論(アトミズム)においては、個々の存在としての人間である
ミクロコスモスMikrokosmos小宇宙)を構成する
原子(アトマ)として捉え直されるという

大宇宙マクロコスモス)から小宇宙ミクロコスモス)への
視点の転換として捉えることができるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:
原子論とパルメニデスの関係とは?①エレア学派と原子論の三つの相違点

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