素粒子の世界とゼノンの無限小の粒子、そして唯心論哲学へ

エレアのゼノンによる存在の多数性論駁シリーズの
第2回「無限数の存在からなる無限小の世界」では、

存在の大きさをテーマとした
ゼノンの多数性論駁において、

世界を構成する究極の単位を見つけ出そうとすると、
存在はどこまでも小さい部分へと無限分割されていき、

存在の究極の単位は、
無限小、さらには、大きさを全く持たないことになる

という議論を紹介しました。

今回は、

このような
ゼノンにおける世界を構成する究極の単位としての
無限小の粒子さらには、大きさゼロの粒子とも言うべき概念と

現代物理学における素粒子の概念との
関連性について考えていくことを通じて、

世界全体の存在の本質がどのようなものであるのか?
という問題についても少し迫っていきたいと思います。

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素粒子の概念とゼノンの無限小の粒子

現代物理学においては、

素粒子が、それ以上小さな部分へと分割することが不可能な
存在を構成する究極の単位とされていますが、

現代物理学の主流派である
標準理論Standard Model標準モデル)では、

存在の究極の単位である素粒子は、
大きさを全く持たない

点粒子point particle、大きさ、空間的広がりを一切持たない大きさゼロの粒子)

とされています。

ちなみに、

現代物理学の中においても、

超弦理論superstring theory超ひも理論とも言う)のように、

素粒子は、非常に微小ではあるが、
有限な大きさを持つストリングstringひも)のようなもの
として存在していると捉える考え方もありますが、

その場合には、

存在が無限小へと無限分割されていく議論における
ゼノンの多数性論駁の議論がそのまま適用できることになり、

微小であったとしても、それが有限な大きさを持った存在であるならば、
少なくても概念上は、その存在を
さらに小さな部分へと分割していくことが可能なので、

そうした微小な大きさを持つものとしての素粒子は、
哲学的観点からは、存在の究極の単位とは言えない

ということになります。

そして、

標準理論において、
素粒子が大きさを持たない点粒子とされる理由は、

現代物理学においては、量子力学との兼ね合いなどからも
説明することができますが、

そもそも、

上記のゼノンの存在の多数性論駁のにおける
存在が無限小へと至る議論に基づくと、

世界を構成する究極の単位は、それが、
それ以上小さな部分へは分割されえない存在の究極の単位である限り、
必然的に、大きさを持たないということが帰結するので、

素粒子が存在の究極の単位であるならば、
それは、必然的に
大きさを持たない点粒子でなければならない

ということになるのです。

世界全体の本当の大きさはゼロ?

そして、これは、

無限数の存在からなる無限小の世界」で述べたのと
同様の議論ということになりますが、

存在の構成する究極の単位である素粒子
大きさを全く持たない点粒子であるということは、

究極の単位である素粒子によって、そのすべてが構成されている
世界全体も、厳密な意味においては、
大きさを持たないということになります。

なぜならば、

素粒子が大きさを全く持たない点粒子であるということは、
その大きさはゼロということになりますが、

ゼロにいくつ数の存在を掛け合わせてもゼロのままなので、

ゼロの大きさである素粒子がいくら多く集まって世界を構成しても、
その全体としての大きさはゼロのままにしかならないからです。

つまり、

大きさがゼロの点粒子である素粒子から構成されている
世界全体の本当の大きさはゼロ

ということになってしまうのす。

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物質としての世界の非存在と唯心論的世界観

そして、

現実の世界における存在は、哲学では、

延長(ある特定の瞬間に、その存在によって、一定の高さ奥行きを持った空間満たさていることを示す存在様式)

と呼ばれる性質である

一定の大きさを持っていることによって、

それが、物体物質的存在として存在している
と言えるので、

延長、すなわち、大きさを全く持っていないものは、
物体物質的存在としては存在していないということになります。

つまり、

世界全体の大きさがゼロであるということは、

世界全体、宇宙全体が、根本的な意味では、
物質的な実体を持っていない空虚な存在であるということであり、

宇宙全体が日常的な理解における物質的存在としては、
本当の意味では存在していない

ということになるのです。

それは、言わば、

世界全体が、物質的な実体を持たない
幽霊のようなものとして成り立っていて、

宇宙全体の物質的存在のすべてが、ある意味では、
虚構に過ぎないことになる

ということでもあります。

以上のように、

世界全体が、根源的な意味においては、
大きさを持った物質的存在としては実在せず、

物質の存在自体が、ある意味では、
一つの虚構に過ぎないとするならば、

それでも、なお、世界が存在すると言う時、
そこに真に存在するものとはいったい何なのでしょうか?

素粒子を扱う物理学数学の世界では、

それは、ある種のエネルギーのうねりのようなもの
として捉えられるかもしれませんし、

真に存在するのは、数学の数式と論理の世界の方であり、
現実の世界は、そうした数式や論理の不完全な現れに過ぎない

と捉える考え方もあるかもしれません。

しかし、

哲学的な観点においては、

それは、存在論として、まずは、

パルメニデスがはじめにその探究の扉を開いた
あるもの(to eon、ト・エオン)」、すなわち、
存在そのものとはどのようなものであるのか?

という存在自体への論理的探究へと向かっていくことになります。

そして、

今回の素粒子の概念とゼノンの無限小の粒子との関連性の考察
から導き出された結論に限ったことではありませんが、

世界全体、ないし、存在そのものが、根源的な意味においては、
大きさを持った物質的存在としては実在していない

という考え方からは、

世界全体、または、その根源的原理を、物質的存在ではない、
何らかの精神的存在として捉える方向へも探究は向かっていき、

デカルトの観念論や、
スピノザの万有内在神論に見られるような

ある種の唯神論、ないし、唯心論的な世界観へと
存在の根源への哲学的探求が進んでいくことになるのです。

・・・

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