エパミノンダスの斜線陣におけるテーバイ軍の具体的な配置と名称の由来:テーバイ名将による重装歩兵の密集陣形の戦術の革新

前回書いたように、ペロポネソス戦争とその後に起きたコリント戦争の後の時代のギリシア世界においては、ペロポネソス戦争の戦勝国となったスパルタの覇権が続いていくことになるのですが、

紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいてテーバイを中心とするボイオティア同盟軍スパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍を破ることによって、こうしたギリシア世界における覇権はスパルタからテーバイへと移っていくことになります。

そして、こうしたギリシア世界においてテーバイの覇権が確立されるきっかけとなったレウクトラの戦いにおいては、

テーバイの将軍にして政治家でもあったエパミノンダスが新たに用いた斜線陣と呼ばれる新たな戦術の導入によって、ギリシア世界における最強の陸軍であったスパルタの重装歩兵の軍団が撃破されることになるのです。

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エパミノンダスによる重装歩兵の密集陣形の戦術の革新

レウクトラの戦いでのエパミノンダスの斜線陣によるテーバイ軍のスパルタ軍撃破の仕組み

紀元前4世紀テーバイの将軍であったエパミノンダス(Epaminondasは古代ギリシア語に基づく表記ではエパメイノンダス(Επαμεινώνδαςと表記されることになりますが、

こうしたエパミノンダスと呼ばれる人物は、数多くの戦いにおいて武功を上げたテーバイの名将であると同時に、ピュタゴラスの哲学に精通した民主派の政治家でもあり、合理性と柔軟な思考とを兼ね備えた天才的な戦術家であったと伝えられています。

そして、こうしたテーバイの名将であったエパミノンダスによって考案された斜線陣または斜陣戦法と呼ばれる新たな戦術においては、

古代ギリシアにおける陸上戦の主力部隊であったファランクスと呼ばれる重装歩兵による密集陣形の運用のあり方に革新的な変化がもたらされることになるのです。

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斜線陣における重装歩兵の軍団の具体的な配置と名称の由来

こうしたそれまでの重装歩兵の密集陣形の定石に対して、エパミノンダスは、あえて、左翼のみに兵力を偏らせた不均等な陣形をとることによってそれまでの戦術の常識を覆していくことになります。

具体的には、エパミノンダスが考案した斜線陣と呼ばれる重装歩兵の密集陣形の戦術においては、通常の6倍にあたる48列の深さにおよぶ圧倒的な兵力を自軍の左翼に集中して配置したうえで、

兵力が手薄になっている右翼の敵陣への突撃を順次遅らせていくことによって自軍が圧倒的に有利な左翼での軍団の衝突と、自軍が不利な右翼での軍団の衝突が起こるまでに時間差できる仕組みをつくり出すことになります。

そして、この戦術においては、左翼と右翼の重装歩兵の軍団が衝突するまでに生じる時間差によって、上空から俯瞰した視点で戦場を眺めると、実際の戦闘の際には、

左翼から右翼へと斜めに下がっていく陣形が構築されていくことになるため、こうした斜線陣と呼ばれる名称がつけられることになったと考えられることになるのです。

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斜線陣の活用によるレウクトラの戦いでのテーバイ軍の圧倒的勝利

そして、こうしたテーバイの名将エパミノンダスによって考案された斜線陣と呼ばれる革新的な戦術がはじめて導入されることになった紀元前371年レウクトラの戦いにおいては、

エパミノンダスが思い描いた策略通りに、横一線に並んだスパルタ軍の右翼の軍団に対して、圧倒的な兵力を集中させたテーバイ軍の左翼の軍団が突撃して前面の敵を撃破することになります。

そしてその後、敵軍を突破した左翼の軍団がすぐに敵陣の後ろへと回り込んで全軍を挟み撃ちにすることによって、

ギリシア世界最強と謳われたスパルタの重装歩兵を含むペロポネソス同盟軍に対して、エパミノンダスが率いるテーバイ軍を中心とボイオティア同盟軍が圧倒的な勝利をおさめることになったと考えられることになるのです。

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