アテナイの建国とイオニア人との関係そして都市国家としてのアテナイにおける王政から貴族政への移行
紀元前12世紀ごろにギリシア人を担い手とする最古の文明にあたるミケーネ文明が崩壊すると、その後の古代ギリシア世界においては、文字文化の存在しない暗黒時代が400年間にわたって続いていくことになるのですが、
古代ギリシアを代表する都市国家の一つにあたるアテナイもまた、こうした古代ギリシアにおける長く続く暗黒時代の間に、一つの市民集団としてのまとまりを持った都市国家として成立していくことになっていったと考えられることになります。
ミケーネ文明の崩壊とイオニア人によるアテナイの建国
そうすると、まず、
こうした現在のギリシャの首都アテネが位置する古代ギリシア語ではアテナイと呼ばれる地域に、ミケーネ文明の担い手ともなったアカイア人の分派にあたるイオニア人と呼ばれるギリシア人たちが定住していくことになったのは、紀元前2000年ごろの時代であったと考えられていて、
その後、紀元前12世紀ごろの時代に起きたと考えられている海の民による襲撃や、アカイア人とは別のギリシア人の一派であるドーリア人の侵入を相次いで受けることによってミケーネ文明が崩壊すると、
こうしたアテナイの地の周辺にあった古代都市や村落もその多くがドーリア人によって征服され荒廃していくことになっていったと考えられることになります。
そして、その後、
こうしたミケーネ文明の担い手となったアカイア人の分派にあたるイオニア人たちの多くは、その名前の由来ともなっているアナトリア半島の南西部に位置するイオニア地方にあったミレトスなどのギリシア人諸都市へと移り住んでいくことになっていったと考えられているのですが、
その一方で、こうしたイオニア人と呼ばれる古代ギリシア人たちのなかには、エーゲ海を越えてイオニア地方へと渡らずにギリシア本土にとどまった人々もいて、
都市国家としてのアテナイは、そうしたギリシア本土にとどまったイオニア人たちの手によって、古代ギリシアの暗黒時代にあたる紀元前10世紀ごろから遅くとも紀元前8世紀ごろまでには建国されていくことになったと考えられることになるのです。
都市国家としてのアテナイにおける王政から貴族政への移行
そして、
こうした紀元前10世紀~紀元前8世紀ごろの時代における都市国家としての建国当初のアテナイにおいては、暗黒時代の古代ギリシアにおけるスパルタなどのほかの都市国家と同様に、王政によって都市国家の統治が行われていたと考えられていて、
こうした王政時代のアテナイにおける代表的な王の名前としては、
ギリシア神話の時代にまでその起源をさかのぼることができる伝説的なアテナイの王にして国民的な英雄でもあった英雄テーセウスやその父であったアイゲウスの名が挙げられることになります。
そして、
こうしたアテナイの王政は、やがて少数の貴族たちによって政治が行われる貴族政へと移行していくことになっていったと考えられ、
紀元前7世紀ごろの時代になるとこうした都市国家としてのアテナイにおいては、王の地位は祭祀を行う高位の神官にあたる地位として形骸化していく一方で、
アルコンと呼ばれる複数の執政官を中心として国家の統治を行っていくアテナイにおける貴族政の体制が確立されることになっていったと考えられることになります。
そして、
こうした紀元前7世紀ごろまでの王政および貴族政の時代におけるアテナイでは、ミレトスなどのエーゲ海沿岸部に位置する他のギリシア人都市国家とは違い、地中海地域における植民活動にはほとんど参加することがなかったと考えられているのですが、
その一方で、こうしたギリシア南東部のエーゲ海につき出た小さな半島にあたるアッティカ半島に位置する都市国家であったアテナイにおいては、そうした立地条件を生かして交易活動へと力を入れていくことになり、
アッティカ平野で栽培されたオリーブやブドウなどの商品作物や陶磁器の輸出などといったエーゲ海や黒海における海上交易を通じて大きく発展していくことになっていったと考えられることになるのです。
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