マタイとマルコの福音書におけるイエスの最後の言葉と「エリ」と「エロイ」というヘブライ語とアラム語における発音の違い、十字架の死に際してイエスが残した最後の言葉とは?①

新約聖書において、イエス・キリスト十字架へとかけられて死を迎えることになる場面は、

マタイによる福音書マルコによる福音書ルカによる福音書ヨハネによる福音書といった四つの福音書のそれぞれの記述において、かなり詳細な形での記述と描写がなされていくことになるのですが、

そうした新約聖書を構成している主要な書物である四福音書のなかで語られているイエスの十字架の死の場面においては、具体的にどのような形で、十字架の死に際してイエスが残したとされている最後の言葉が語られていると考えられることになるのでしょうか?

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マタイとマルコの福音書における十字架の死に際したイエスの最後の言葉

そうすると、まず、

新約聖書最初の書にあたるマタイによる福音書においては、十字架へとかけられて死を迎えることになったイエスが最後に残した言葉は、以下のような言葉であったと語られています。

・・・

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。

ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた

(新約聖書「マタイによる福音書」27章45節~50節)

・・・

そして、以下で述べるように、

こうしたマタイによる福音書において語られているイエスの死の場面についての記述と同様の記述は、そうしたマタイによる福音書に続く

新約聖書第二の書であるマルコによる福音書における以下のような記述においても見いだしていくことができると考えられることになります。

・・・

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた

(新約聖書「マルコによる福音書」15章33節~37節)

・・・

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アラム語における「エロイ」とヘブライ語における「エリ」という発音表記のあり方の違い

ちなみに、こうしたマタイによる福音書マルコによる福音書という二つの福音書において記されているイエスの最後の言葉についての記述のあり方には、

前者のマタイによる福音書における記述においては、イエスの最後の言葉の内に含まれた「わが神」を意味する言葉は「エリ」という言葉として記されているのに対して、

後者のマルコによる福音書における記述においては、そうしたイエスの言葉の内に含まれている「わが神」を意味する言葉は「エロイ」という言葉として記されているという表記の違いが見られることになるのですが、

これは、イエスと弟子たちが生きていた1世紀ごろパレスチナ地方のユダヤ人の人々が使用していた言語であるアラム語において「わが神」という呼びかけの言葉を意味する「エロイ」(Eloiという言葉が、

マルコによる福音書ではそのままアラム語の発音のまま「エロイ」(Eloiという形で記されているのに対して、

マタイによる福音書では旧約聖書の原典がその言葉によって記されたとされている聖なる言語でもあるヘブライ語の発音に直されて「エリ」(Eliという形で記されているために生じてしまった発音表記の違いであると考えられることになります。

・・・

そして、以上のように、

こうしたマタイとマルコの福音書において記されている十字架の死に際して残したとされているイエスの最後の言葉においては、

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

という、一見すると、

偽りの罪によって処刑されることになったイエスが自らの死に際して、神が自分のことを死の苦しみから救い出してくださらないことに対して嘆き悲しみ深く絶望して打ちひしがれているという苦痛と絶望に満ちた魂の叫びのような言葉が示されているとも解釈していくことができると考えられることになるのですが、

それについては、

このシリーズの数回あとの記事において、詳しく考察していくように、この言葉は、そうしたイエスの十字架の死の前後に起こったすべての出来事が逆巻きになった予言の言葉のようなものとして語られていて、

すべての出来事が神の永遠の計画に従った出来事として、起こるべきことが起こるべきようにして実際に起きていったということを示しているという深淵なる意味を持った言葉としても解釈していくことができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:ルカとヨハネの福音書において十字架の上で最期の時を迎えるイエスが残したとされる三つずつの言葉、十字架の死に際してイエスが残した最後の言葉とは?②

前回記事:13日の金曜日が不吉な日とされる本当の理由とは?最後の晩餐における不吉な数字とユダの裏切りとテンプル騎士団との関係

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