ソメイヨシノという名称の具体的な由来とは?桜の名所である吉野山との関係と吉野桜から染井吉野へと呼び名が変わった経緯
前回の記事で書いたように、ソメイヨシノ(染井吉野)とは、江戸時代の末期にエドヒガンとオオシマザクラと呼ばれる二つの桜の種類の交雑によって人工的に作り出されたと考えられている桜の品種のことを意味する言葉であり、
3月下旬から4月ごろにかけて新葉よりも先に淡紅色から白色の花を咲かせていくことになる日本を代表する桜の種類として位置づけられることになると考えられることになります。
それでは、
こうしたソメイヨシノ(染井吉野)と呼ばれる桜の品種のことを意味する名称は、具体的にはどのような由来からこうした名前がつけられることになったと考えられることになるのでしょうか?
染井吉野という名称の由来と吉野山が桜の名所となった具体的な経緯
まず、
ソメイヨシノ(染井吉野)という名称自体の由来としては、こうしたソメイヨシノと呼ばれる桜の品種が新たに生み出された江戸時代の末期に、
現在の東京都豊島区の駒込のあたりに位置する染井村(そめいむら)に集住して現代で言うところの植物園や花園のような集落を形成していた植木職人たちが、
古来より桜の名所として名高かった現在の奈良県に位置する吉野山の桜の木にあやかって、当初は、吉野桜という名前をつけてこうした現在ではソメイヨシノと呼ばれている桜の品種を売り出していたということが大本の由来として挙げられることになると考えられることになります。
吉野山(よしのやま)は、山野に籠って修行を積む僧侶のことを意味する山伏(やまぶし)などで有名な7世紀頃の日本において活躍した修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)にゆかりのある修験道の聖地としても位置づけられて、
役小角が吉野山に連なる山々のことを意味する金峰山(きんぷせん)において修業を積んで悟りを開いたのち、桜の樹木に修験道信仰の本尊にあたる金剛蔵王菩薩の像を刻んだとの伝承が残っていることから、
平安時代ごろから吉野山において、金剛蔵王菩薩、すなわち、釈迦如来の化身とも言われている蔵王権現(ざおうごんげん)に祈りを捧げる際に、桜の木を神木として寄進して植樹するのが習わしとなっていったと考えられることになります。
吉野桜から染井吉野へと呼び名が変わっていくことになった具体的な経緯とは?
そして、
吉野山は、そうした日本全国から訪れる数多くの参詣者によって寄進された大量の桜の木によって、鎌倉時代ごろまでには、すでに日本を代表する桜の名所になっていったと考えられることになるのですが、
そうした吉野山において生息している桜の木々は、そのほとんどが日本国内において古くから最も広く自生していた桜の種類にあたるヤマザクラ(山桜)によって構成されているのに対して、
冒頭でも述べたように、
染井村の植木職人たちの手によって吉野桜という名前で売り出されて日本国内に広まっていくことになった現代においてはソメイヨシノとして知られている桜の品種は、ヤマザクラではなく、エドヒガンとオオシマザクラと呼ばれる二つの桜の種類の交雑によって生み出された桜の品種であるということがそののち明らかとなっていくことになります。
そして、
そうした様々な桜の品種の生物学的な系統分類のあり方が明らかとなっていった1900年ごろの明治時代において、
前述した吉野山などにおいて広く生息している一般的な桜の種類にあたるヤマザクラとの混同を避けて、両者の桜の品種を明確に区別していくために、
こうしたエドヒガンとオオシマザクラの掛け合わせによって生まれた新たな桜の品種に対して、そうした桜の作り手となった植木職人たちの集落が位置する染井村と、彼らがそうした新たな桜の品種に付けた吉野桜というもともとの名前の両者を合わせることによって、
染井吉野(ソメイヨシノ)と呼ばれる現代においても広く用いられている桜の品種のことを表す名称が新たに名付けられることになったと考えられることになるのです。
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次回記事:ソメイヨシノの学名にあたるプルヌス・エドエンシスの由来とは?ラテン語の意味と江戸や東京を代表する桜としての位置づけ
前回記事:ソメイヨシノが人為的な繁殖手段でしか子孫を残せない具体的な理由とは?虫媒花ならぬ日本人媒花としてソメイヨシノの存在
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