知性概念の神の認識の内への上昇と人間の認識の内への没落の歴史、近代哲学における知性概念の没落と自然科学の萌芽

前回の記事で書いたように、哲学史においては、古代ギリシアのアリストテレス哲学から近代ヨーロッパにおけるカントの認識論哲学までの哲学思想の展開のなかで、

知性と理性と感性と呼ばれる人間の心における三つの認識能力の位置づけのあり方が大きく変化していったと考えられることになるのですが、

こうした哲学史における知性や理性といった概念の位置づけの変化のあり方は、知性概念における上昇と転落の歴史としても捉えていくことができると考えられることになります。

古代ギリシアのアリストテレス哲学と中世スコラ哲学における神の存在へと通じる普遍的な知性としての知性概念の位置づけ

詳しくは「知性とは何か?」のシリーズで考察してきたように、

もともと、古代ギリシア哲学においては、知性と呼ばれる概念は、人間の心における知的な認識のあり方を意味すると同時に、宇宙全体の秩序を司る根源的な原理の存在のことを意味する概念としても捉えられていたと考えられることになるのですが、

こうした古代ギリシア哲学における知性概念は、紀元前4世紀のアテナイの哲学者であるアリストテレスの哲学体系の内において、

能動知性と呼ばれる概念を通じて、アリストテレス哲学において世界自体の存在の究極の根拠として位置づけられていくことになる不動の動者第一動者としての神の存在における知のあり方としても捉えられてくことになります。

そして、その後、

こうしたアリストテレス哲学における知性概念の捉え方を引き継いでいったイブン・シーナー(アヴィケンナ)イブン・ルシュド(アヴェロエス)といったイスラム世界の哲学者たちや、彼らのアリストテレス解釈を引き継いでいった中世ヨーロッパのスコラ哲学においては、

そうした神の存在における能動知性に対応する人間の魂における可能知性の存在のあり方も、究極的には全人類に共通するただ一つの普遍的な知性の存在の内に求められていくことになるという知性単一説と呼ばれる知性概念の捉え方が示されていくことになるのですが、

つまり、そういった意味では、

こうした古代ギリシアのアリストテレス哲学中世スコラ哲学における哲学思想の展開のなかでは、

知性概念は、一人ひとりの人間の心の内に存在する単なる認識能力にとどまらず、それは、不動の動者としての神の存在における普遍的な知のあり方へと通じる神聖で超越的な概念として位置づけられていたと考えられることになるのです。

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近代ヨーロッパのロックやカントの認識論哲学における個別的な理解力や認識能力としての知性概念の位置づけ

しかし、その後、

時代が中世の終わりからルネサンス期へとさしかかると、まずは、14世紀のイギリスのスコラ哲学者であるオッカムの哲学思想において、

個体主義や唯名論に基づく観点から、こうした神的な知のあり方へと直接的に通じていく普遍的な知性の存在についての疑問が強く呈されていくことになります。

そして、

さらにその後のイギリス経験論を代表的する哲学者であるロックや、ドイツ観念論の祖として位置づけられるカントの哲学における認識論の議論においては、

知性概念は、完全に、一人ひとりの人間における個人的な認識能力のあり方として捉えられたうえで、それは単に、人間の心における理解力のことを意味するような

概念把握を主体とする認識作用のあり方を意味する概念として捉え直されていくことになるのです。

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近代哲学における知性概念の没落と自然科学の萌芽そしてヘーゲルの絶対精神からユングの集合的無意識への展開

以上のように、

こうした哲学史における知性概念の定義の変遷においては、

古代ギリシア哲学において、人間の心における知的な認識の原理であると同時に、宇宙全体の秩序を司る根源的な原理の存在のことも意味していた知性概念は、

アリストテレスの哲学体系とそれを引き継いだ中世ヨーロッパのスコラ哲学の内では、神の存在と通じる普遍的な知性としての高みにまで上りつめていくことになるのですが、

その後、一度は、そうした神的な知のあり方にまで上昇していった知性概念は、近代ヨーロッパにおけるロックやカントの認識論哲学において、再び人間の心における個別的な知のあり方の次元へと位置づけ直されていくことになっていったと考えられることになります。

つまり、そういった意味では、

こうした哲学史における一連の流れのなかでは、古代ギリシアにおけるアリストテレス哲学からカントの認識論哲学へと至るまでの哲学思想の展開を通じて、

知性概念は、天上における神の認識の内から地上における人の認識の内へと引きずり降ろされていくことになっていったと考えられることになるのです。

そして、

そうした近代における知性概念の没落に呼応していく形で、

近代ヨーロッパの学問世界においては、知性や魂といった精神的な原理ではなく、物理法則や自然法則などの物理的な原理を基盤とする新たな学問体系としての自然科学の萌芽が生じていくことになっていったと考えられることになるのですが、

その一方で、

こうした神の存在における知のあり方へと通じるような能動知性や、すべての人間に共通する普遍的な知性としての単一知性の存在といった超越的な知性概念の捉え方が、その後の人類の思想史の内から完全に消え去ってしまったというわけではなく、

そうした全人類に共有されているような超越的で普遍的な精神的原理の存在は、その後の哲学史や思想史の流れのなかにおいても、

例えば、ヘーゲルの絶対精神や世界精神、あるいは、ユングの集合的無意識といった概念の内に、そうした全人類に共通するような普遍的な知性としての知性概念の捉え方へと通じる思想を見いだしていくことができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:善意志とは何か?カントの倫理学における「無条件に善いこと」としての善意志の定義と道徳法則との関係

前回記事:西洋哲学史における知性・理性・感性の序列関係の変化、アリストテレスとカントにおける知性と理性の関係の逆転現象

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