ガリレオからケプラーそしてニュートンへと至る近代における地動説の系譜、地動説とは何か?④
このシリーズの前回の記事で書いたように、近代ヨーロッパにおける科学革命の進展は、16世紀の天文学者であるコペルニクスによる地動説の再発見と彼の死と共に出版された『天体の回転について』と題される一冊の本によってはじまったと考えられることになるのですが、
こうしたコペルニクスによって提唱された地動説の理論が、近代天文学と近代科学の根幹をなす科学理論としてヨーロッパの学界において広く受けいれられていくようになるまでには、さらに多くの先見の明を持った科学者たちの活動が必要とされていくことになります。
そして、そうした近代ヨーロッパにおける地動説の系譜には、コペルニクスに次いで、さらに、ガリレオとケプラーそしてニュートンという三人の科学者たちが位置づけられていくことになると考えられることになるのです。
ガリレオ裁判における地動説への弾圧と政治的な論争への展開
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564年~1642年)は、17世紀のイタリアの物理学者にして天文学者にもあたる人物であり、
彼は、慣性の法則や落体の法則といった近代科学における基本原理の多くを発見した近代ヨーロッパにおける科学革命の中心人物として位置づけられる当時から非常に高名な科学者であったと考えられることになります。
地動説に関するガリレオの業績としては、その学説の内容自体よりも、そうした地動説の理論の提唱をめぐるカトリック教会との対立と、ガリレオ裁判とのちに呼ばれることになる異端審問における論争といった政治的な面における業績が挙げられることになると考えられ、
こうした裁判の中で彼は、天文学の分野においてカトリック教会が正統とする天動説の教義を否定する地動説を提唱していたことを理由に強い糾弾と迫害を受けることになり、
最終的に、ガリレオは、1633年に下された異端審問の判決によって、自らの地動説の学説を放棄することを強要されたうえで、終身刑を言い渡されることとなり、
その後の減刑処置によって監視付きの邸宅での軟禁生活へ入ることになるのですが、それからのちも、結局、彼が死ぬまでそうした一連の処分が解かれることはなく、
ガリレオは、自らのすべての著作を禁書処分とされ、ヨーロッパの学界から追放されたまま、失意のうちにその生涯を閉じることになります。
しかし、その一方で、
おそらくはガリレオの弟子たちや彼の信奉者たちによる創作であるとは考えられるものの、こうした一連のガリレオ裁判の中の最後の場面において、
ガリレオがイタリア語で”E pur si muove !”(エ・プル・スィ・ムオヴェ、「それでも地球は動いている」)とつぶやいたとされるエピソードが後世においても語り伝えられているように、
こうしたガリレオ裁判における地動説の学説をめぐるカトリック教会との間で繰り広げられた激しい論争は、ガリレオのことを厳しく処罰した教会の側の意図とは裏腹に、
ガリレオが提唱していた地動説の学説が世の中に広く知らしめていくことへとつながっていったと考えられることになるのです。
ケプラーの法則による地動説理論の完成とニュートン力学における力学体系への組み入れ
そして、
その次に挙げるヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler、1571年~1630年)という人物は、前述したガリレオと同時代に生きていた17世紀のドイツの天文学者であり、
彼は、ガリレオが暮らしていたイタリアよりはカトリック教会の影響力が弱いドイツで研究活動を行っていたため、地動説の提唱によってガリレオほどの強い迫害を受けることはなかったと考えられることになります。
そして、
ケプラーは、そうした自らの天文学における研究活動のなかで、ケプラーの法則と呼ばれる楕円軌道に基づく惑星の運動理論を確立していくことによって、
太陽系におけるすべての惑星の運動を合理的に説明する地動説に基づく天文学理論を完成させていくことになるのです。
そして、その後、時代が17世紀の後半へと進んでいくと、
今度は、イギリスの物理学者にして天文学者でもあったアイザック・ニュートン(Isaac Newton、1642年~1727年)によって、万有引力の法則が発見され、
前述したガリレオによって発見された慣性の法則なども含む一連の力学的な法則がニュートン力学と呼ばれる近代科学の根幹をなす力学理論の体系として確立されていくことになります。
そして、
そうした近代科学における新たな力学理論の確立の過程において、上述したケプラーの法則によって完成された地動説に基づく天文学理論も、そうしたニュートン力学の体系のうちに組み込まれていくことになり、
それよって、こうした天文学における地動説の理論は、近代科学の根幹をなす基礎理論の一つとして、ヨーロッパの学界に広く認められていくことになったと考えられることになるのです。
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以上のように、
近代ヨーロッパ社会における地動説の受容は、コペルニクスによる地動説の再発見によってその端緒が開かれたのち、
その後に続くガリレオからケプラーそしてニュートンへと至る三人の科学者たちによる新たな科学理論の提唱とガリレオ裁判なども含めた社会的活動の展開などを通じて、段階的な形で進んでいくことになったと考えられることになるのです。
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次回記事:天動説と地動説はどちらが先に唱えられたのか?神話的世界観と古代ギリシアにおける地動説と天動説の理論の時間的な前後関係
前回記事:コペルニクス的転回の二つの意味とは?カントの認識論哲学における対象の側から主観の側への認識論的転回
このシリーズの前回記事:コペルニクスによる地動説の再発見とその死によって切り拓かれた近代ヨーロッパの科学革命への道、地動説とは何か?③
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