コペルニクスによる地動説の再発見とその死によって切り拓かれた近代ヨーロッパの科学革命への道、地動説とは何か?③

前回の記事で書いたように、太陽が天球の中心にあり、人間が住んでいる地球や月やその他の星々太陽の周囲を回転していると捉えることによって地上から見える天体の運行のあり方を説明していく太陽中心説としての地動説の理論は、

紀元前3世紀の古代ギリシアの天文学者であったアリスタルコスが唱えた学説の段階において、すでに高度な学問的体系を備えた天文学理論として完成していたと考えられることになるのですが、

こうした古代ギリシアにおける太陽中心説としての地動説の学説が近代ヨーロッパ世界において再発見され、それが天体の運行を合理的に説明する科学理論として学界に広く受け入れられるようになっていくまでには、

コペルニクスガリレオそしてケプラーニュートンという四人の科学者たちにおける地動説の理論の提唱とそれぞれの人物の社会面における実践的な活動のあり方が大きく関わっていくことになると考えられることになります。

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聖職者と天文学者としてのコペルニクスの二重生活

まず、こうした近代ヨーロッパの四人の科学者たちの中でも、近代科学における地動説の理論の確立に最も大きく貢献した人物としては、

ポーランド出身の天文学者にしてカトリックの司祭でもあったコペルニクスの名を挙げることができると考えられることになります。

ニコラウス・コペルニクスNicolaus Copernicus、1473年~1543年)は、現在のポーランドに位置するプロイセン領内の一都市であったトルンに生まれ、

1491年に、ポーランド最古の大学でもあったクラクフ大学に入学し、そこではじめて天文学に触れることによって学術的な研究を積み重ねていくことになります。

その後、彼は、ポーランド北東部のヴァルミアの司教であった彼の叔父の計らいによって、1495年にこの地の司祭の職に就いて、その後はカトリック教会の聖職者として生活していくことになるのですが、

コペルニクスは、そうした司祭としての仕事の傍らで、時間を見つけては天体観測を行うなど大学時代に学んだ天文学についての研究も進めていくことになり、

彼は、そうした聖職者としての生活天文学者としての学問的探究を両立させていく中で、自らの地動説の理論を練り上げていったと考えられることになるのです。

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『天体の回転について』の出版とコペルニクス死

しかし、その一方で、

中世ヨーロッパにおいてキリスト教の教義に基づく正統な学問体系として位置づけられていたスコラ学における天動説の理論を否定する地動説の考え方は、カトリック教会の教義に反する異端思想としても位置づけられていたこともあり、

聖職者であったコペルニクスは、そうした自らの地動説の理論を書籍として出版することには慎重な立場をとり続けていくことになります。

コペルニクスは、すでに1510年頃の段階において、コメンタリオルスComentariolusと題される手稿のなかで、太陽中心説としての地動説の概要をまとめていて、その後、1530年頃までには、

地球の公転軌道の内側には水星と金星が位置していて、その外側には火星と木星と土星が並んでいるといった太陽系全体の構造を解き明かす天文学理論を完成させていたと考えられることになるのですが、

その天文学の詳細な理論は、数学者でもあった彼の数人の友人たちと、彼のことを慕う一部の天文学者たちの間でのみ共有され、彼の存命中は公の人々には知られることのないまま時が過ぎていってしまうことになるのです。

そして、コペルニクスの人生が晩年へとさしかかると、彼のことを高く評価し、その理論に感銘を受けてきた友人たちからの強い勧めもあって、

彼はついにその重い腰を動かして、自分がその生涯において探究し続けてきた地動説の理論の集大成となる書物をまとめ上げる作業へと乗り出していくことになるのですが、

完成した原稿の校正を依頼してその出版を待つ中、1542年11月、彼はポーランドの厳しい冬の寒さのなか脳卒中に倒れ、その後、死の床へとついてしまうことになります。

そして、その翌年の1543524、ちょうど『天体の回転について』De Revolutionibus Orbium Coelestiumと題されるその本が、すべての校正を終えて出版ができる体裁が整えられて彼のもとに届けられたその日に、

コペルニクスは、自らがその生涯をかけて練り上げてきた地動説の理論の集大成が記されたその一冊の本の完成を見届けるようにして、70歳の天命を迎えてこの世を去ることになるのです。

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以上のように、

コペルニクスの地動説が書物の形で公開されて一般の学者たちがその理論を知ることができるようになったのは、彼の死後にその天文学理論の集大成が記された『天体の回転について』という一冊の出版されてからのことであり、

その後、こうしたコペルニクスにおける地動説の理論を一つの端緒としてガリレオケプラーそしてニュートンへと続く近代ヨーロッパにおける科学革命が進展していくことになっていったと考えられることになります。

そして、そういった意味では、

こうした近代ヨーロッパにおける科学理論の革命的な発展は、コペルニクスによる地動説の再発見とその死によって切り拓かれていったと捉えることができると考えられることになるのです。

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次回記事:コペルニクスはドイツ人とポーランド人のどちらなのか?ラテン語を含む三つの文化圏への精通とドイツ騎士団による東方植民

このシリーズの次回記事:ガリレオからケプラーそしてニュートンへと至る近代における地動説の系譜、地動説とは何か?④

前回記事:アリスタルコスによる太陽中心説としての地動説の提唱と月の大きさと太陽の大きさや地球との間の距離についての具体的な推定、地動説とは何か?②

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