コペルニクスはドイツ人とポーランド人のどちらなのか?ラテン語を含む三つの文化圏への精通とドイツ騎士団による東方植民
前回の記事で書いたように、近代ヨーロッパにおいて天文学における地動説の学説を再発見することによって、近代における科学革命の道を切り拓いていくきっかけをつくった人物の名としては、
現在のポーランドに位置する都市であるトルンで生まれた天文学者にしてカトリック教会の聖職者でもあったコペルニクスの名が挙げられることになるのですが、
こうしたコペルニクス自身のルーツについては、その出身地であるポーランドではなく、隣国のドイツに求められると主張されることもあります。
それでは結局、コペルニクスはドイツ人とポーランド人のどちらの民族や文化圏に属する人物であったとかんがえられることになるのでしょうか?
ドイツ騎士団による東方植民とコペルニクスの父方の家系の出自
冒頭でも述べたように、ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)は1473年、現在のポーランドに位置するトルンの町に生まれることになるのですが、
トルンが属しているプロイセンと呼ばれる地域は、のちにプロイセン王国の国王であったヴィルヘルム1世が北ドイツ連邦の盟主となったのちに1871年にドイツ皇帝の座につくことによって、現在のドイツ連邦共和国にまでつながるドイツ帝国の礎が築かれていったように、
コペルニクスが生まれたトルンを含むプロイセンの地域は、伝統的にドイツとの関わりが非常に深い地域であったと考えられることになります。
プロイセンを中心とするドイツの東方の地域においては、カトリック教会公認の騎士修道会の一つであるドイツ騎士団の活動を中心に東方植民と呼ばれるドイツ人の大規模な移民政策が進められていくことになるのですが、
コペルニクスの父方の一族は、こうしたドイツの東方にあたるポーランドのシレジアと呼ばれる地方の彼らの一族の家系名の由来ともなったコペルニキ(Koperniki)と呼ばれる銅山の町に出自をもっていて、コペルニクスの父もこの町で生産される銅を商う豪商として身を立てた人物であったと考えられています。
そして、コペルニクス自身も、そうした彼自身の家系の出自にならって、家庭においてはドイツ語を話すドイツ語を母国語とする人物であったと考えられるように、
コペルニクスは、その出生地自体はポーランドであるものの民族や血統としての出自はドイツ人に近い、いわばドイツ系ポーランド人にあたる人物であったと考えられることになるのです。
ドイツ語とポーランド語とラテン語という三つの文化圏への精通
前述したようにコペルニクスは、ドイツ語を母国語とする人物であり、彼にとって最も使い慣れた言語はドイツ語であった考えられることになるのですが、
その一方で、彼は両親の死後に、ポーランド北東部のヴァルミアの司教であった彼の叔父の計らいもあってポーランド最古の大学でもあったクラクフ大学に入学し、この地で天文学者としての学術研究の歩みをスタートさせていくことになるので、
コペルニクスはそうしたポーランド語においてなされる大学の講義や議論においても不自由することがないような日常会話レベル以上の十分なポーランド語の知識も身につけていたと考えられることになります。
そして、さらに、彼自身の手でドイツ語へと訳された一部の論文を除いて、コペルニクスの主著である『天体の回転について』(De Revolutionibus Orbium Coelestium)を含む彼のほとんどすべての著作は、
彼が司祭を務めていたカトリック教会の公用語であり、スコラ哲学を中心とする当時のヨーロッパの学界全体における共通言語でもあったラテン語によって記されていることからも分かるように、
コペルニクスは、もともとは古代ローマの言語であったラテン語にも精通した人物であったと考えられることになるのです。
ちなみに、コペルニクスの本名であるニコラウス・コペルニクスという名前自体も、こうしたラテン語とドイツ語とポーランド語というそれぞれの言語において、
ラテン語ではNicolaus Copernicus、ドイツ語ではNikolaus Kopernikus、ポーランド語ではMikołaj Kopernikというように、少しずつ違った表記で書き表されることになるのですが、
こうしたことを考え合わせると、
近代ヨーロッパにおいて地動説の学説を再発見することによって、近代における科学革命の礎を築いた人物であるコペルニクスは、ドイツ語とポーランド語とラテン語という三つの言語に深く精通した人物であり、
それまでの伝統的な学問体系のあり方に革命的な変化をもたらすことになる彼の科学的思考のあり方は、
これらの三つの文化圏における様々な思考のあり方が互いに組み合わされていくことによって、その土台が形づくられていくことになったと考えられることになるのです。
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次回記事:コペルニクス的転回の二つの意味とは?カントの認識論哲学における対象の側から主観の側への認識論的転回
前回記事:コペルニクスによる地動説の再発見とその死によって切り拓かれた近代ヨーロッパの科学革命への道、地動説とは何か?③
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