神における本質と存在の同一性に基づく神の実在の明証性、トマス・アクィナスによる神の存在証明の議論①
中世ヨーロッパにおいて、スコラ哲学の礎を築いた人物として11世紀のイギリスの神学者であるアンセルムスの名が挙げられるとするならば、
そうしたスコラ哲学の大成者としては、13世紀のイタリアの神学者にして哲学者でもあったトマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225年頃~1274年)の名が挙げられることになります。
そして、トマス・アクィナスによる神の存在証明の議論としては、その主著である『神学大全』において示されている宇宙論的証明や目的論的証明と呼ばれる神の存在証明の議論が有名ですが、
彼の哲学においては、そうした『神学大全』における神の存在証明の具体的な議論が進められていく以前にも、
神の概念についての定義と分析が進められていく段階においてすでに、概念のみから神の実在性が明証的に示されている箇所があるとも考えられることになります。
神における本質と存在の同一性に基づく神の実在の明証性
トマス・アクィナスは、アンセルムスの神の存在論的証明における論証の進め方を否定したうえで、
アンセルムスが示したような「それよりも大きいもの(偉大なもの)を考えることができないもの」という神の定義は採用せずに、
古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスが『形而上学』において提示している万物の第一原因としての「不動の動者」の概念、
すなわち、「あらゆる存在の根源的な第一原因」という概念を神の定義として採用することになります。
そして、
こうした神は、それがあらゆる存在を生み出した創造主にして第一原因すなわち始動因(作用因・動力因)となる存在である以上、
そのような始動因としての神は、その本質において、直接現実の世界へと働きかける力を持った現実態としての存在、すなわち、現実において能動的に活動している存在でなければならないと主張されることになります。
また、
神がすべての存在の第一原因とされる以上、現実態としてのその存在のあり方は、すべての存在を生み出す力を持った完全性を備えた存在のあり方であると考えられることになり、
冒頭で挙げた『神学大全』においても、神は「それ自身の内に存在の完全性全体を包含している」と述べられていくことになります。
つまり、以上のようなトマス・アクィナスによる神の概念の分析と吟味の議論に基づくと、
トマス・アクィナスがアリストテレスの『形而上学』における「不動の動者」の概念に基づいて定義した「あらゆる存在の根源的な第一原因」としての神は、自らの内に存在の完全性を有する純粋現実態として現実に実在する神でなければならないと考えられることになり、
そのような神の概念においては、
「本質」、すなわち、「~である」という定義と、
「存在」すなわち、「~がある」という実在性とが一致しているという意味において、
すでにその実在性が明証的に示されていると考えられることになるのです。
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以上のように、
上記のようなトマス・アクィナスが提示した「あらゆる存在の根源的な第一原因」としての神の定義に基づいて、こうした神の概念についての分析と吟味を進めていくと、
そうした第一原因としての神は、その本質において現実の世界へと能動的な働きかけを行う純粋現実態であり、自らの内に存在の完全性を有するという意味において、現実に実在する存在であると考えられることになります。
つまり、トマス・アクィナスによる神の概念の定義に基づくと、
「神においては本質と存在は同一である」という意味において、
こうした神という概念自体についての形而上学的な分析の内に、すでに、神の存在証明が含まれているとも考えられることになるのです。
しかし、その一方で、
こうした神の概念のみに基づく神の実在性の存在論的な証明のあり方は、神の完全なる知性においては自明であるものの、不完全な知性しか持たない人間にとっては、本来、その理解の範疇を超えているとも考えられるので、
そうした人間の知性にとってより適切な経験的な論証のあり方として、『神学大全』においては、「五つの道」と呼ばれる一連の神の存在証明についての議論が提示され、
宇宙論的証明や目的論的証明と呼ばれるような経験的な事実に基づいて神の実在性の論証を行う五通りの論証のあり方が提示されていくことになるのです。
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次回記事:存在論的証明と宇宙論的証明の違いとは?トマス・アクィナスによる神の存在証明の議論②
前回記事:存在論的証明(本体論的証明)とは何か?アンセルムスによる神の存在証明が存在論的(オントロジカル)である理由とは?
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