スピノザの認識論における知的直観とすべての存在を神の内に観る直観知、哲学における直観の意味とは?⑤
前回の記事で書いたように、
17世紀前半のフランスの哲学者であるデカルトにおいては、一義的には、
直観的認識という認識のあり方は、「私はある、私は存在する」という私の意識にとって最も直接的で確実な認識である自己直観として捉えられることになります。
そして、
こうした直観という認識のあり方は、
さらに、その次の時代の哲学者であるスピノザにおいて、
そうした自分自身の精神における直観がそのまま神の内にある永遠の認識のあり方へと結びついていくようなより崇高な意味合いを持った概念として捉え直されていくことになります。
スピノザにおける認識のあり方の三種類の区分
17世紀後半のオランダの哲学者であるスピノザの認識論においては、
まず、人間の精神における認識のあり方は、
第一種認識である表象知(imaginatio、イマジナチオ)
第二種認識である理性知(ratio、ラチオ)
第三種認識である直観知(scientia intuitiva、スキエンティア・イントゥイティウァ)
という三つの認識の区分に分けて捉えられることになります。
このうち、
第一の認識のあり方の区分である表象知には、日常的な認識のあり方における通常の意味での知覚や感覚などが該当することになります。
そして、こうした表象知においては、
例えば、人影が見えると思って近づいて見たら、実はただの黒い布切れが棒に引っかかって揺れているだけだったというように、単なる見間違いといった誤った認識が生じてしまう可能性が高い以上、
こうした表象知と呼ばれる認識のあり方は、あまり信用のおけない不確実な認識のあり方であるとして、哲学が求める真理へと至るために必要な認識のあり方の候補からは除外されてしまうことになります。
次に、
第二の認識のあり方の区分である理性知には、数学や物理学などといった通常の学問における論理的思考といった認識のあり方が分類されることになります。
そして、こうした理性知においては、
例えば、人間の身体のあり方を腕の筋肉の付き方や骨格の構造といった要素へと分解して捉えていくことによって、そうした身体の運動において共通する概念や法則を見いだすことができるとしても、
そうした人体の構造の部分的な分析を積み重ねるだけでは、人間という存在全体のあり方とその存在理由、すなわち、自分という存在がどこから来て、なぜ今ここに存在していて、これからどこへと行くのか?という人間自身についての根源的で普遍的な問いに対する答えを見つけ出すことは不可能であると考えられることになります。
つまり、
こうした理性知と呼ばれる認識のあり方においては、人間の精神は、それぞれの事物に共通する概念や法則についての知識を得ることができたとしても、
そうした論理的思考に基づいて得られた概念は、それぞれの事物のある特定の部分についての理解を促すのみで、そうした認識のあり方では事物そのものの全体のあり方を把握することができないという意味において、
こうした理性知と呼ばれる認識のあり方は、やはり不完全な認識のあり方にとどまると考えられることになるのです。
すべての存在を神の内に観る最高の認識としての直観知
それでは、
そうした人間についての根源的で普遍的な問いに真の意味で答えることができる認識とは、いかなる認識のあり方であるのか?ということですが、
スピノザの認識論においては、第三の認識である直観知(scientia intuitiva、スキエンティア・イントゥイティウァ)こそが、そうした真の意味で確実で、完全な認識のあり方であるとされることになります。
スピノザの哲学思想においては、神即自然と言われるように、神は世界に外在するのではなく内在していて、神と世界とは同一であるとする意味での汎神論、
より正確に言うならば、自分自身の精神も含めた世界全体のあらゆる存在が神の内に存在するという万有内在神論とでも呼ばれるべき世界観が展開されていくことになりますが、
そうした視点に立つと、
人間の精神は、自らもその内に包含されている無限なる神の存在の認識へと至り、
そうした無限の属性を持つ神の存在の内に、自分自身を含むあらゆる存在を位置づけて捉えていくことによって、
そうした自分自身の精神を含む存在の全てを、部分ではなく全体において一挙に把握することができると考えられることになります。
そして、
こうした神の存在の内に自らを含めたすべての存在を見つめ直す直観知という認識のあり方は、それが空間も時間も超越した無限なる存在である神の知性の内にある認識であるという点において、知的直観という認識のあり方としても捉えられることになり、
そうした知的直観としての直観知という認識のあり方自体も、あらゆる空間的時間的制約を超越して、すべての存在を一挙に把握するという永遠性という視座の上に立った認識のあり方をしていると考えられることになるのです。
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以上のように、
スピノザの認識論における第三の認識である直観知においては、
人間の精神は、自らもその内に包含されている無限なる神の存在の認識へと至ることによって、自分自身の精神を含む存在の全てを、部分ではなく全体において一挙に把握することができると考えられることになります。
そして、
こうした「すべてを永遠の相のもとに観る」という神の知性の内にある知的直観においては、
人間の精神は、自らの存在を含めた世界全体の本質をその根源から一挙にとらえることができ、そうした知的直観の働きによって、哲学が求める真理の全体を一挙に把握する認識へと至ることが可能であると考えられることになるのです。
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次回記事:カントの認識論における直観概念の転回と感性的直観と知的直観の違い、哲学における直観の意味とは?⑥
前回記事:デカルトにおける直観としての「私はある、私は存在する」という認識、哲学における直観の意味とは?④
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