生物の四つの定義とは何か?クモとイチョウの木のたとえ、生命とは何か?①
生命の定義とは何か?すなわち、生物と無生物とを隔てている要素とはいったい何なのか?という問いについて一つの明確な答えを出すためには、その前提として、
まず、生物を生物たらしめている要素、すなわち、すべての生物に共通する一般的な特徴について数え上げ、それぞれの特徴の普遍的な定義について深く考えておくことが必要となります。
そこで、初回である今回は、
身近にいる生物を例に挙げ、彼らがなぜ生物と言えるのか?ということについて考えていくことを通じて、
こうしたすべての生物に共通する特徴、すなわち、一般的で普遍的な生物の定義とは何か?という問いに迫っていきたいと思います。
クモとイチョウはなぜ同じ「生物」と言えるのか?
例えば、
いま目の前の壁に張りついている一匹のクモと、部屋の窓から見える一本のイチョウの木は、外見上は互いにまったく似ても似つかない姿をしているわけですが、
それでも、私たちはすでに、このクモもイチョウも両方とも生きている生き物であるということが分かっていて、
両者は、同じ「生物」という言葉でひとくくりにすることができる存在であるということを知っています。
つまり、クモとイチョウの両者には、互いに共通する何らかの特徴があり、その共通する特徴が両者を生きている存在、すなわち生物たらしめていると考えられることになるのですが、
それでは、どのような共通する特徴から両者は生物であるとみなされるのか?どのような普遍的な定義から、このクモとこのイチョウの木は同じ「生物」であると言えることになるのか?ということについて考えていきたいと思います。
生物の第一の定義:「自己と外界との境界」
そうすると、まず、
先ほどの文の中でも、「このクモ」「このイチョウの木」という表現を使っていたように、
ある存在が生物であり、それが一つの個体として生きていると言えるためには、その前提として、その存在が「これ」や「あれ」と指をさして示すことができるような一つのまとまりを持った存在であることが必要であることに思い至ることになります。
例えば、
水や空気や土のように、互いに明確な境界を持たずに漠然と広がっているような存在の場合は、「この水」や「この土」は生きているのか?と問おうとしても、
その水や土は、手ですくい取った先から、指の間からこぼれ落ちていってしまい、水や土のどこからどこまでの範囲について、それが生きているかどうか問うていたのか?ということすらすぐに分からなくなってしまいます。
つまり、
ある程度しっかりとした輪郭を持たない存在については、それが生物であるか否かを問うこと自体が不可能であり、
クモは、自分が這っている壁から明瞭に区別されることによって、
イチョウの木も、自分が生えている土から区別できる明確な境界としての輪郭を持った存在であることによってはじめて、
それが一つの個体として生きているとみなすことが可能となるということです。
そして、
たとえ、それが元は生物であったとしても、その存在がひとたび生命を失い、生物としての資格を失うことになれば、
死んだクモの体も、枯れたイチョウの木の幹も徐々に崩れ落ちて次第に土の中へと混じっていき、やがてその輪郭はぼやけていって曖昧となり、もはや周りの土たちと区別することはできない状態へと還っていくことになります。
このように、
生物を生物たらしめている特徴、普遍的な生物の定義としては、第一に「自己と外界との境界」という定義が挙げられることになります。
生物の第二の定義:「エネルギーと物質の代謝」
そして、次に、
目の前にいるクモをしばらく観察していると、それはずっと壁に張りついたまま止まっているわけではなく、時々トコトコと這っていき、少しずつ動いているということに気づくことになります。
イチョウの場合には、木をじっと眺めていても、こちらがすぐに気づくようなはっきりとした動きを木自体が見せることはないわけですが、
春のまだ葉が芽吹きだしたばかりの状態から、夏の葉がたくさん生い茂った状態へと長い期間では木の様子も大きく変化していくように、イチョウの木の場合にも一定の活動と変化が見られることになります。
それでは、こうしたクモとイチョウに共通する活動と変化は、どのような種類の活動と変化であるのか?ということですが、
その前提にあるのは、クモが運動するエネルギーやイチョウが生長していくエネルギー、あるいは、そうした葉っぱや幹の生長やクモの体の成長の源となる材料を作り出していく活動と変化であり、
それは、エネルギーや新たな物質を生産し、それを古い物から新しい物へと置き換えていくエネルギーと物質の代謝によってもたらされる活動と変化であると考えられることになります。
このように、
生物の第二の定義としては、「エネルギーと物質の代謝」という定義が挙げられることになります。
生物の第三の定義:「自己複製」
そして、さらに注意深く観察を続けていくと、
目の前に現れるクモは、いつも同じ姿をしているわけではなく、大きい個体であるときもあれば、子供のクモのような小さな個体が現れることもあり、
時には、互いに連れ添っている親グモと子グモのペアを見かけることもあります。
クモの寿命はだいたいの種類が一年から数年程度と比較的短いので、この家に住んでいる間にも、おそらくもうすでに何回ものクモの代替わりがあり、
いま目の前で対面しているこのクモは、引っ越した時に見かけたクモの数世代後の子孫ということになるのでしょう。
イチョウの木の場合は、寿命が長く、樹齢が1000年を超えるケースも多くあるので、自分が生きている内に窓の外に生えているイチョウの木の代替わりを目にする機会はないのかもしれませんが、
その長く生きるイチョウの木にしても、ずっと同じ個体だけが生き続けているわけではなく、
イチョウの花が咲く春の季節になると、雄花から雌花へと花粉が風に乗って運ばれていき、受粉した胚珠が種子となり、秋に銀杏の実となって大地に転げ落ちることによって、そこから新たなイチョウの木の個体が誕生していくことになります。
このように、生物は、古い個体が自分の種族の新しい個体を生み出していくことによって、生命の営みを次の世代へと受け継いでいくという自己複製のサイクルの上に成り立っていると考えられることになります。
このような観点から、
生物の第三の定義としては、「自己複製」という定義が挙げられることになります。
生物の第四の定義:「恒常性」
そして、
こうした生物の活動が向かっていく力の矛先は、前述の自己複製と共に、自分の内部に対しては、その内部環境を一定の状態に保つという恒常性の維持という方向へも向かっていくことになります。
クモのような動物の場合は、寒ければより暖かい場所へと移動し、体内の水分が不足すれば水場へと移動して水分補給を行うというように、自分の生命を維持していくために内部環境を一定に保つ恒常性の維持機能が個体レベルでも、その体内の細胞レベルにおいても広くみられることになります。
これに対して、植物の場合は、動物のように自分の体自体を移動させることはできないわけですが、
体内の水分量が減れば、葉の表面にある気孔を閉じて水分が蒸散していく量を少なくし、水分量が多すぎるときには、気孔を大きく開いて水分が水蒸気として外へ出て行くのを促すというように、
恒常性を維持する機能は、イチョウなどの植物の場合にも見られることになります。
このように、
すべての生物には、クモのような動物の場合でも、イチョウのような植物の場合でも、自らの生命をより適切な状態で維持していくために、
常に自分の体内の内部環境を一定の状態に保ち、適切なバランスを維持しようとする恒常性(ホメオスタシス)の力が働いていると考えられることになるのです。
そして、以上のような観点から、
生物の第四の定義として「恒常性」という定義が挙げられることになります。
・・・
以上のように、
クモやイチョウといったそれぞれの生物はなぜ同じ「生物」という言葉でひとくくりに捉えることができるのか?
生物を生物たらしめている要素とはいったい何なのか?という問いについて考えていくとき、
それは、
「自己と外界との境界」「エネルギーと物質の代謝」「自己複製」「恒常性」という生物の四つの定義へと行き着くと考えられることになります。
つまり、
地球上に生息しているすべての生物は、上記の生物についての四つの普遍的な定義を共有することによって、生きている存在、生物であるとみなされることになるということです。
・・・
そして、
以上の生物の四つの定義は、その定義の内容をより精査していくことによって、
生物を生きている存在として成り立たせている生命の三つの定義へと改めて絞り込んでいくことができると考えられることになります。
・・・
次回記事:生命の三つの定義とは何か?よりシンプルで的確な定義の模索、生命とは何か?②
前回記事:生物の八つの具体的な特徴と四つの生物の定義との対応関係
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