少数者の犠牲を容認する悪しき力の論理を否定するための思想、ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?④
詳しくは「少数者の犠牲に基づく社会全体の幸福の最大化は功利主義において否定されうるのか?」で考えたように、
ベンサムの量的功利主義における「最大多数の最大幸福」の思想を、そのまま字義通りに捉えると、
多数者の幸福の最大化のためには少数者の犠牲もやむを得ないとしていじめや差別、迫害行為を黙認してしまうような悪しき力の論理へと陥ってしまうとも考えられることになります。
少数者の犠牲が容認される悪しき力の論理
例えば、
いじめっ子が寄ってたかって弱い者いじめをしようとする時、
いじめっ子が相手をいじめることで感じる支配欲の充足や嗜虐的な快感といったいじめることの快楽が、いじめられっ子が感じている肉体的・精神的苦痛といったいじめられることの苦痛を上回っていれば、
弱い者いじめをすることは道徳的に正しい行為として認められてしまうといった極端な解釈も論理的には成立すると考えられてしまうことになります。
しかも、この場合、
いじめられ虐げられている者の数が少数であり、いじめに加わる者たちの数が多ければ多いほどいじめっ子たちが感じている快楽と幸福の総量は大きいものになるので、
大勢で弱い者いじめをすればするほど「最大多数の最大幸福」としての正義が実現されるという人間的な感情においては到底受け入れがたい事態が生じてしまうと考えられることになるのです。
しかし、
こうした少数者の犠牲を容認する考え方は、功利主義における個人主義の観点を重視することによって明確に否定することができるとは考えられるのですが、
それは、同時に、
多数者が少数者をいじめる行為だけに限らず、現に行われているいじめを止めようとする行為も功利主義における個人主義の原理に反する悪しき行為として退けられることを意味することにもなってしまうのです。
少数者の犠牲の否定と個人の英雄的行為の容認の間のジレンマ
詳しくは「功利主義の本質にある個人主義と快楽の最大化という二つの原理」で書いたように、
個人主義の観点が重視されているベンサムの功利主義においては、その原理である「最大多数の最大幸福」のあり方は、より正確には、
個人の集合としての社会全体の幸福は最大化されなければならない、
しかし、それは別の個人の幸福を損なわない限りにおいてである。
と記述されることになります。
そして、こうした個人主義の観点が重視された功利主義の考え方に従うと、
例えば、
大勢で少数の人をいじめる行為は、少数の立場に置かれた個人の幸福を損なう行為ということになるので、それは功利主義における個人主義の原理に反する悪しき行為として否定されることになります。
しかし、それと同様に、
自分の目の前でいじめが行われている時に、それを見過ごさずに、一人で大勢のいじめっ子の前に立ちはだかり、いじめを止めようとする行為もまた、いじめを止めようとする個人の幸福を損なう危険性の高い行為であると考えられることになります。
なぜならば、一人で大勢のいじめっ子に立ち向かうことによって、その行為を行うことになる個人は様々な妨害や報復にあったり、自分自身が新たないじめのターゲットにされてしまうといった大きな危険を冒すことになってしまうと考えられるからです。
そして、それは、個人の幸福を損なう可能性が極めて高い行為であるという意味において、現に行われているいじめを止めようとする行為もまた、個人主義の原理に反する悪しき行為として否定されてしまうとも考えられることになるのです。
つまり、
単に、功利主義における個人主義の側面を強調するだけでは、いじめ行為だけではなく、個人に危害が加わる可能性のあるあらゆる行為が悪しき行為として退けられてしまうことになるので、
それは、少数者の犠牲が強いられる社会のあり方を否定し、いじめられっ子を救う論理になると同時に、そうしたいじめられっ子を助けようとする個人の英雄的行為を止める論理にもなってしまうという問題が生じてしまうことになるのです。
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以上のように、
ベンサムの量的功利主義においては、その原理である「最大多数の最大幸福」の思想を、そのまま字義通りに捉えると、少数者の犠牲を容認する悪しき力の論理へと陥ってしまう危険性をはらんでいると考えられることになります。
そして、
そうした少数者の犠牲を容認する考え方を否定するために、功利主義における個人主義の側面を強調したとしても、
今度はそれによって、いじめや迫害行為を止めようとする個人の英雄的行為もまた個人に犠牲を強いる悪しき行為として切り捨てられることになってしまうという別の問題が生じてしまうことになるのです。
それでは、
どのようにすれば、少数者の犠牲を容認する悪しき力の論理を否定すると共に、上記のような少数者の犠牲の否定と個人の英雄的行為の容認の間のジレンマをも解決する功利主義の解釈が可能となるのか?ということですが、
それは、
ミルの質的功利主義の観点に立ち、快楽と幸福について質的な視点を導入することで、新たに別の視点からこの問題を捉え直すことによって可能となると考えられることになるのです。
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