悪いのは法か?それともそれを用いる人間の心か?「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?⑤
前回書いたように、
「悪法もまた法なり」という言葉として解釈されることが多い『ソクラテスの弁明』の続編である『クリトン』におけるソクラテスの思想は、
国法と国家の強大な権力の前に屈服して従うだけの受動的なあり方ではなく、自らが善く生きるために国法の定めに従うことを自らの意志によって選び取るという能動的な生き方のことを示す思想であると考えられることになります。
そして、
『クリトン』の終わりで、国法と国家は最後に、まるで、これから無実の罪によって死刑に処されるという苦難へと立ち向かおうとするソクラテスのことを慰めるかのように、彼に対して以下のように語りかけていくことになります。
魂の幸福は善く生きることであり、不幸とは悪と不正を行うこと
だから、ソクラテスよ、お前はお前の養育者である我々の言葉に従うがいい。…
なぜかといえば、この世においてすら、お前自身のためにもまたお前に関わる何人のためにも、正義に従う以上の幸いはなく、あの世についた後も、それ以上にお前の幸いを増すものはないであろうから。
今お前がこの世を去るとするならば、お前は不正を我々国法からというよりも、人間から加えられたものとしてこの世を去ることになるのである。
(プラトン著、『クリトン』、第16節)
『クリトン』のこの部分の記述は、
魂の幸福とは善く生きることであり、不幸とは悪と不正を行うことであるというソクラテスにおける根本的な道徳観と人生観がよく伝わってくる部分であると考えられます。
そして、
こうした『クリトン』に表れているソクラテスの思想に基づくと、
真実の意味で善く生きることを心がけ続ける人にとっては、その魂にはいかなる意味でも悪しきものがもたらされることがなく、
その善き生の最後に訪れることになる死ですらも、それは悪しきものではなく、善きものとなると考えられることになるのです。
悪いのは法か?それともそれを用いる人間の心なのか?
そして、
上記の『クリトン』からの引用文においても、
ソクラテスに対して「我々の言葉に従うがいい…」、そして、「なぜならば…正義に従う以上の幸いはなく…」と語りかけてくる我々、すなわち、国法と国家は、正義とほとんど同義語にも等しい概念として扱われているように、
ソクラテスが自らの意志によって従い、そのために死ぬこととなった国法とは、悪法などではなく、むしろ正義の法としてソクラテスにとっては捉えられていたと考えられることになります。
それでは、
法が悪法ではなく、正義の法であるにも関わらず、なにゆえ、ソクラテスが無実の罪によって死刑判決を受けるという不当な刑に処されることになったのか?というと、
それは、上記の引用文の最後でも述べられている通り、
国法自体ではなく、それを悪用して悪意と偏見に満ちた判断を下したアテナイの人々、すなわち、法を用いる人間自身の手によって不正を加えられたと考えられることになります。
つまり、
ソクラテスに対して不当な判決を下し、無実の罪で死刑に処するという不正を犯したのはアテナイの人々であって、
国法や国家という人間社会における秩序を司る普遍的な概念自体が不正であるわけではないと考えられるということです。
・・・
以上のように、
国法と国家という仮想の対話相手を想定するなかで進められてきた法と正義を巡るソクラテス自身による自問自答の議論における結論としては、
国法自体が悪法であるわけでもなければ、それに基づくアテナイにおける民主主義の政治制度と民衆が裁判に参加するという裁判制度のあり方に根本的な問題があるわけではなく、
自らの偏見に満ちた判断や誤った知のあり方を顧みることなく、そうした法制度を悪用することによって自分の私利私欲を満たそうとする扇動者、裁判官、そしてアテナイの人々という一人一人の心のあり方に問題があるということになるのです。
したがって、
「悪法もまた法なり」という言葉については、それをソクラテスの思想と照らし合わせて語るとするならば、その真意は、より正確には、以下のように語られるべきであると考えられることになります。
アテナイの国法は善である。
しかし、その善なる国法が悪しき心をもつ人々の手によって悪用されてしまった場合は、その善き国法に基づいて定められた悪しき運命に従うことを、自分自身が善く生きるために自らの意志によって選び取らなければならない、と。
つまり、
「悪法もまた法なり」という言葉として解釈されているソクラテスの思想において問われているのは、
国法自体の善悪ではなく、それを用いる一人一人の人間の生き方であり、そうした人間の知性と魂のあり方についての問題であると考えられることになるのです。
・・・
初回記事:「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?『クリトン』における国家と国法との寓話的な対話
前回記事:ただ生きるのではなく、善く美しく生きることの価値、「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?④
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