「酸っぱいブドウ」のキツネは本当に愚か者だったのか?心理学における合理化の肯定的な解釈、合理化とは何か?③

前回の記事で書いたように、『イソップ物語』のなかに出てくる「酸っぱいブドウ」の話においては、

擬人化されたキツネの姿を通して、自分の行動を正当化するための不合理な言い訳をすることによって、自分にとって不都合な事実を覆い隠してしまおうとする心理学における「合理化」にあたる人間の心理のあり方が示されていると考えられることになります。

しかし、その一方で、

こうした「酸っぱいブドウ」の話のキツネの姿に代表される心理学における「合理化」と呼ばれる自我の防衛機制の働きは、

必ずしも、自分にとって不都合な真実から目を背け、自らがきちんと向き合うべき責任をから逃れようとするといった負の側面からのみ捉えられるべき心の働きというわけではなく、

そこからは、人間が自らの人生を前へと進め、より創造的かつ建設的に生きていくための手助けとなるような肯定的な側面も読み解いていくことができると考えられることになります。

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「酸っぱいブドウ」のキツネは本当にただの愚か者だったのか?

前回書いたように、『イソップ物語』「酸っぱいブドウ」の話の最後の部分において、主人公であるキツネは、

いくら頑張って飛び跳ねてみても、自分の手では高い木の上にあるブドウの実をもぎ取ることができないことが分かった時点で、

「どうせあのブドウの実はまだ熟していない酸っぱいブドウだったに違いない。」

と決めつけて、次の瞬間には、今まで自分がひたすら執着し続けていたブドウの実のことなどすっかり忘れてしまったかのように、その場を去って行ってしまうことになるのですが、

それでは、

こうした心理学においては「合理化」と呼ばれる心の働きが作用しなかった場合、キツネはいったいどのような行動をとることになったと考えられることになるのでしょうか?

その場合、キツネの心理においては、自分が今まで追い求めていたブドウの実を酸っぱいブドウだと決めつけてしまうという認知の歪みが生じてしまうことはないと考えられることになるわけですが、

その一方で、

自分が追い求めているブドウの実はやはり甘くて美味しいブドウであるかもしれないという正しい認識を持ったままのキツネは、

それがどうやっても自分の手には入らないということが分かってた後でも、さらにしばらくの間は、諦めきれずに無駄に飛び跳ね続けることになり、疲れ果てて、落胆した気持ちで家へと帰った後でも、

自分が手に入れられなかった魅惑のブドウの実のことに心を捕らわれ続けて悶々とした時間を無駄に過ごしてしまうことになるとも考えられることになります。

つまり、そういった意味では、

こうした「酸っぱいブドウ」のキツネは、単に、自分で不合理な言い訳をでっち上げているだけのただの愚か者であったというわけではなく、

むしろ、こうした心理学における「合理化」と呼ばれる自我の防衛機制の機能をうまく利用することによって、自分の心の内に巣食っている決して手に入らない魅惑のブドウの実に対する未練を断ち切ったうえで

前向きな形で自分の人生における新たな目標を目指して歩んでいく心の準備を整えているとも捉えることができると考えられることになるのです。

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心理学における「合理化」の肯定的な側面と良い方と悪い方のどちらの方向へも機能しうる自我の防衛機制の働き

以上のように、

『イソップ物語』の「酸っぱいブドウ」の話の中に出てくるキツネは、

自分の手には入らないと分かったブドウの実を酸っぱいブドウだと決めつけてしまうことによって、自分自身の認知のあり方を歪めてしまっていると考えられることになるのですが、

その一方で、そうしたブドウの実についての認知の歪みのあり方は、その後のキツネの人生にとってはあまり関係のない重要度の低い事柄であるとも考えられるので、

ブドウの実についての正しい認知のあり方を受け入れたまま、いつまでも手に入れられなかったブドウの実のことに心を捕らわれて、

「あのブドウの実の味はどんなに甘美であったことだろう…」

「惜しいことをしたなあ…」

「どうしてあのブドウの実はあんなに高い所になっていたのだろう?」

「せめて自分の腕があと10センチ長ければ届いていたかもしれないのに…」

などと、いつまでも手に入れられなかったブドウの実のことに心を捕らわれて悶々としているよりは、

そうしたブドウの実についての認知のあり方を歪めてでも、

自分の手に入らなかったものはどうせ自分にとって大して必要なものではなかったんだ、あるいは、単にそういう運命の巡り合わせようなもので、はじめから何もないのと同じようなことだったんだ、と自分の心に言い聞かせることによって、

ブドウの実のことについてはすっぱりと諦めて新たな方向へと前向きに人生の歩みを進めていくということの方が、キツネの人生にとってはより有意義な選択であったとも考えられることになります。

つまり、

こうした「酸っぱいブドウ」のキツネに代表されるような心理学における「合理化」と呼ばれる自我の防衛機制の働きには、

単に、不合理な言い訳をすることによって、自分自身の認知のあり方を歪めてしまうという否定的な側面だけが見いだされるわけではなく、

そこには、人間が自分の意志ではどうにもならないことについてはすっぱりと諦め、気分を切り替えることによって、自分自身の心とうまく折り合いをつけていくと共に、

そうすることによって、前向きな気持ちで新たな方向へと人生の歩みを進めていこうとする肯定的な側面も見いだすことができるということです。

そして、

これは「合理化」だけに限らず、今回までの一連のシリーズで取り上げてきた様々な自我の防衛機制の働き全般について言えることですが、

そういった意味では、

こうした「合理化」と呼ばれる心の働きを含む自我の防衛機制のあり方は、それぞれの防衛機制が用いられる具体的な状況の違いやそうした心の働きの強度や微妙な方向性の違いなどに応じて、

自分自身の心にとっても、社会への適応のあり方においても、良い方へも悪い方へもどちらの方向へも機能しうる心の働きとして捉られることになると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:自我の防衛機制における「孤立」と「逃避」の定義と心理学における「退行」との関係とは?防衛機制とは何か?⑭

前回記事:「酸っぱいブドウ」の心理学的な意味とは?『イソップ物語』における擬人化されたキツネの寓話の心理学的な解釈、合理化とは何か?②

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