「酸っぱいブドウ」の心理学的な意味とは?『イソップ物語』における擬人化されたキツネの寓話の心理学的な解釈、合理化とは何か?②
前回の記事で書いたように、自我の防衛機制の働きの一つとして位置づけられている心理学における「合理化」とは、一般的には、
自分の心の内に存在する満たされない欲求や不安などに対して、合理的な説明を与えることによって自分自身を納得させようとする心の働きのことを意味する言葉として用いられていると考えられ、
それは、突き詰めていくと、自分にとって不都合な事実などを、一見すると少し論理的であるようにも見えるが実際は不合理な説明によって覆い隠そうとする心の働きとして捉えることができると考えられることになります。
そして、
こうした心理学における「合理化」と呼ばれる心の働きのあり方が分かりやすく描かれている古典作品としては、『イソップ物語』のなかに出てくる「酸っぱいブドウ」の話が挙げられることになります。
寓話としての『イソップ物語』の位置づけと「酸っぱいブドウ」の話
『イソップ物語』とは、紀元前3世紀頃に成立したと考えられている古代ギリシアの寓話的な短編物語集にあたる作品であり、
そこでは、擬人化された動物たちなどを主人公として、子供たち、あるいは、一般の大人にとっても教訓や説話となるような一連の物語が語られていくことになります。
そして、
こうした『イソップ物語』のなかに出てくる日本では「酸っぱい葡萄」という名で知られている短い物語は、
もともとの『イソップ物語』の原題においては「狐と葡萄」(“The Fox and the Grapes”)と題されている作品にあたることになるのですが、
そうした『イソップ物語』における「酸っぱい葡萄」(狐と葡萄)の話のなかでは、以下のような形で、心理学における「合理化」にあたるような人間の心理のあり方が描かれていくことになります。
・・・
ある日、お腹を空かせた一匹のキツネが森の中を歩いていると、目の前に、大きな実をつけた立派なブドウの木が生えているのを見つけました。
キツネは、ぜひともこの見事なブドウの木になっているおいしそうなブドウの実を味わってみたいものだと舌なめずりをして、その実を木からもぎ取ろうと手を上の方へと伸ばしてみることにするのですが、
そのブドウの木があまりにも大きく立派過ぎて、木のとても高いところに実がなっていたので、キツネがいくら上へと手を伸ばして、全力で飛び跳ねてみても、ブドウの実がなっている枝のところにさえ、手が届くことはありません。
しばらくして、どうやってもそのブドウの実が自分のものにはならないことを思い知ったキツネは、うらめしそうにブドウの木を見上げながら、
「なんだ、あのブドウはまだ十分に熟してさえいないじゃないか。酸っぱいブドウの実なんてどうせ欲しくもなんともないや。」
とつぶやきながら、まるで何事もなかったかのように、その場を去って行ってしまうことになるのです。
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「酸っぱいブドウ」の話において示されている「合理化」の心理とは?
以上のように、
こうした「酸っぱい葡萄」(狐と葡萄)の話の最後の場面においては、
本当は、単に自分の力が及ばず、ブドウの木の上の実がなっているところまで手が届かなかったために、ブドウの実を食べることができなかっただけなのにも関わらず、
「どうせあのブドウの実はまだ熟していない酸っぱいブドウだったに違いない。だから自分の手が届かなかったんだ。」という因果関係が逆転したような屁理屈を持ち出すことによって、不合理な言い訳をすることに終始しているキツネの姿が描かれていると考えられることになります。
つまり、
『イソップ物語』における「酸っぱい葡萄」(狐と葡萄)の話のなかでは、こうした寓話の中の擬人化されたキツネの姿を通して、
自分の行動を正当化するための不合理な言い訳をすることによって、自分にとって不都合な事実を覆い隠してしまおうとする心理学における「合理化」にあたる人間の心理のあり方が示されていると考えられることになるのです。
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次回記事:「酸っぱいブドウ」のキツネは本当に愚か者だったのか?心理学における合理化の肯定的な解釈、合理化とは何か?③
前回記事:心理学における「合理化」の意味とその具体例とは?論理的に見える不合理な説明を導く心の働き、合理化とは何か?①、防衛機制とは何か?⑬
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