存在の多数性論駁③無限大であると同時に無限小である
前回の
「存在の多数性論駁②無限数の存在からなる無限小の世界」では、
存在を多であると仮定すると、
世界を構成する究極の単位は、無限小、さらには、
大きさを全く持たないということになり、
世界全体も無限小の状態、さらには、
大きさゼロの非存在の状態へと陥ってしまう
という矛盾が生じることを示しました。
存在の多数性を否定する議論としては、
前回の議論だけでも十分完結している
と言えるのですが、
ゼノン自身の多数性論駁においては、
議論の対称性を保つために、
前回の議論とは正反対の結論が帰着する
世界を構成する究極の単位が
無限大の大きさになってしまうという議論
についても考えられています。
そこで、今回は、
その議論、すなわち、
ゼノンの存在の多数性論駁の内の
存在の大きさの無限小と無限大をテーマにした議論の
後半部分にあたる議論について見ていきたいと思います。
存在が無限大へと至る議論
ゼノンはまず、前回の議論と同様に、
存在が多であると仮定すると、
その存在の一つ一つは、単一の存在であり、
世界の全体は、そのような
存在の究極の単位から構成されているとしたうえで、
前回の議論では、
世界全体の方から、存在を分割していくことによって、
世界を構成する究極の単位へと至ろうとしましたが、
それとは対称的に、
今回の議論では、
世界の究極の構成単位である
一つ一つの存在の方から議論をスタートします。
そして、
そうした世界の究極の構成単位が
存在するものであるとすると、
その存在の究極の単位は、
一定の大きさを持つものでなければならない
と主張します。
なぜならば、
大きさを全く持たないものについては、
それが他のものに付け加わっても、
元のものの大きさが増えることはなく、
それが他のものから取り去られても、
元のものの大きさが減ることもありませんが、
それが付け加わっても取り去られても
他の存在に何の影響も与えないということは、
それは、非存在であることになるからです。
現実の世界に存在するものは、
それが大きさを持つことによって、
はっきりとその形を目で捉えることができ、
手で直に触ってその存在を確かめることができますし、
さらには、
重量や体積を計測することによって、
それが確かに存在することを確認できるわけですが、
いかなる重量も体積も持たず、
したがって、大きさを持たないものというのは、
視覚においても触覚においても、重さや長さの計測によっても
その存在を捉えることができないことになり、
そのようなものは、言わば、
幽霊や幻のようなものということになってしまうので、
少なくとも、現実の世界における物質的存在としては、
大きさを持たないものは存在であるとは言えない
ということになります。
つまり、
何らかの重量や体積を持たないもの、すなわち、
大きさを全く持たないものは、
現実の世界においては、非存在である
ということです。
そして、
存在の究極の単位が大きさを持つものであるということは、
それが体積を持つということであり、
体積を持つものには、
一定の高さと一定の幅があるということになりますが、
ある存在が高さや幅を持つということは、
その存在の内のある部分と他の部分が離れている
ということによって成り立っていると考えられます。
例えば、
鉛筆の長さが10cmであるという時、
その鉛筆が10cmという長さを持つということは、
鉛筆の上端の部分と下端の部分が10cm離れていることによって
成り立っているようにです。
そして、
もとの存在が大きさを持っていた以上、
その存在の部分も、一定の大きさを持つことになりますが、
その存在の部分が大きさを持つということは、
その存在の部分においても高さと幅があり、したがって、
その存在の部分の部分があり、それも一定の大きさを持つというように、
存在の究極の単位の内には、
一定の大きさを持つ部分が無限に生じていくことになります。
そして、
一定の大きさを持った部分が無限に存在するということは、
塵も積もれば山となるで、
その一定の大きさを持った部分の無限のつながりの全体である
存在の究極の単位自体も無限に大きくなるということになり、
したがって、
存在の究極の単位は無限大である
という結論に至ることになるのです。
存在の究極の単位は無限小であると同時に無限大である
以上のように、
存在が多であると仮定したとき、
世界を構成する究極の単位の存在の方から
世界全体を構成しようとすると、
その存在の究極の単位は、無限大である
という結論が帰着することになりますが、
それとは反対に、前回の議論にしたがって、
世界の全体の方から、世界を構成する
分割不可能な究極の単位へと至ろうとすると、
その究極の単位は、無限小であり、
さらには、大きさを持たない非存在のものである
という結論が帰着することになります。
つまり、
ゼノンの論法に従うと、
存在が多であると仮定したとき、
世界を構成する究極の単位は、
無限大であると同時に無限小である
という大きな矛盾が生じてしまうことになるということです。
以上のように、
世界を構成する究極の単位が無限小へと至る前半の議論に、
それと対称性をなす、
存在の究極の単位が無限大へ至る後半の議論が加わることによって、
ゼノン自身の多数性論駁の議論の全体が
完成することになるのです。
・・・
しかし、
よくよく考えてみると、
存在の大きさの無限小と無限大をテーマにした
ゼノンの存在の多数性論駁の後半の議論である
今回の、存在の究極の単位が無限大へと至る議論の方は、
論理展開の流れの中に、
どこかおかしなところがあるような気もします。
そこら辺のところについては、
次回、また詳しく考えてみたいと思います。
・・・
このシリーズの前回記事:存在の多数性論駁②無限数の存在からなる無限小の世界
このシリーズの次回記事:存在の多数性論駁④存在が無限大へと至る議論の問題点
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