プラトンの初期対話篇『メノン』における知の探究のパラドックスと想起説の議論①、プラトンの想起説①
想起説とは、初期から中期へと至るプラトンの哲学思想において、哲学的探究が目指すべき真理であるイデアの存在やその探究可能性を根拠づけるために導入される思想です。
そして、こうした想起説についての主張は、プラトンの初期対話篇においては、
知の探究については、その探究の対象が自分が以前から知っている知識であっても、以前に自分が知らなかった知識であっても、どちらの場合においても探究が不可能となってしまうという
知の探究のパラドックスと呼ばれる議論との関係から語られていくことになります。
『メノン』における知の探究のパラドックスの議論
プラトンの初期対話篇の内の一つである『メノン』においては、裕福な貴族の子弟であったメノンが投げかける以下のような質問に、ソクラテスが応じていく形で、知の探究のパラドックスと想起説についての議論が展開されていくことになります。
この対話篇の冒頭部分では、
「徳とは人に教えられるものなのか?」と問うメノンに対して、
ソクラテスは、彼の哲学の基本姿勢である無知の知と呼ばれる知のあり方に基づいて、
「そもそも徳とは何であるのかということさえ私には分かっていないのだ。」と答えることになります。
しかし、こうしたソクラテス流の問答法に必ずしも満足しないメノンは、最終的に以下のような質問を提起することになります。
それは、「もしそれが何であるのかまったく分かっていないのだとすれば、それについていったいどうやって探究することができるのか?」という疑問です。
例えば、
大事な書類を入れたファイルが見つからないから一緒に探してほしいと人に頼むとき、
その人は自分が探しているファイルの大きさや形状、重さはどのくらいで、どんな色をしていて、入っている書類の内容は具体的にどのようなものなのかといったそのファイルについて様々な情報を伝えることによって、一緒に探し物を手伝ってもらうことができるというように、
ある人が何かを探し出そうとする時、その人は予め探す対象となる物についての情報をある程度知っていることが必要であると考えられることになります。
つまり、
探し物は、予め自分が何を探しているかが分かっているからこそ見つけることが可能となるのであって、
何を探しているかも分からない探し物とは、そもそも見つけること自体が不可能な全く無意味な探究であると考えられることになるのです。
しかし、その一方で、
徳や知についての探究においては、探究の対象となるのは忘れ物や落とし物などではなく、そうした様々な事柄についての知恵や知識である徳そのものや知そのものということになるので、
そうした知の探究においては、それまで知らなかった何らかの知識を新たに獲得するということがその探究の目的であると考えられることになります。
そうすると、知の探究が成し遂げられるためには、以前には知らなかった知識を探究を通じて新たに見つけ出すことが必要となるわけですが、
前述の議論に基づくと、人はそもそも自分が知らないものについては、それを見つけ出すこともできないということになります。
つまり、知の探究については、
以前から知っている知識をそのまま知り続けているだけではそれは知の探究にはならず、かといって、以前に自分がまったく知らなかった知識についてはそれを新たに見つけ出すことはできないのでやはり探究が成立しないというパラドックスが生じてしまうと考えられることになるのです。
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以上のように、プラトンの初期対話篇である『メノン』においては、
知の探究が成立するためには、新たに見つけ出された知識は以前に知らなかった知識でなければならないが、人は自分が知らない知識についてはそれを見つけ出すこともできないので、
新たな知識を見つけ出すという意味における知の探究は不可能となるという知の探究のパラドックスの議論が提示されていくことになります。
そして、こうした知の探究のパラドックスの問題を解決するために、『メノン』において、想起説と呼ばれる新たな思想が提示されていくことになるのです。
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次回記事:プラトンの初期対話篇『メノン』における自発的な学習の過程としての想起説の議論②、プラトンの想起説②
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